ナレンドラ ダモダルダス モディ नरेन्द्र दामोदरदास मोदी Narendra Damodardas Modi 太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。 18代インド首相 前グジャラート州首相
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Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 1(2) May, 2001 原爆と日本の医学 飯島 宗一 ( 名古屋大学名誉教授 ) Atomic Bomb and Japanese Medicine Soichi IIJIMA (Honorary Professor of Nagoya University) キーワード Key words; 核兵器 Nuclear Weapon, 原子爆弾 Atomic Bomb, 原子爆弾障害 Atomic Bomb Injury, 科学者の責任 Responsibility of scientists, 被爆者 Hibaku-sya * 連絡先 : 〒 名古屋市 千種区 富士見台 4の52の6 Address: chikusa-ku ,Fujimidai 4-52-6, JAPAN 15年戦争中の日本の医学の最大の問題は、広 島・長崎における原爆投下とそれをめぐる医学医 療上の諸問題であろう。著者は1979年7月に「広 島・長崎の原爆災害」と題する500 ページあまり のモノグラフ(岩波書房刊)をまとめて、その大 要を記述したけれども、「15 年戦争と日本の医学 医療研究会」の要望を容れて、この問題について の私見を以下にかかげることにする。 I;原子爆弾の開発 -米、独、日 私たちの宇宙を形づくっている物質の内部に巨 大なエネルギーが秘められていることは、前世紀 はじめ以来アインシュタインの関係式E= ㎡とし て理論的に予想されていたことであるが、原子核 内のエネルギーを現実に人間がとり出し、利用す る可能性は長らく疑問視されていた。原子核物理 学の開拓者として著名なアーネスト・ラザフキー ドですら、1832年に彼自身の弟子であるジェーム ス・チャドウイックが中性子を発見し直後、原子 核反応では化学反応に比べて100万倍ものエネル ギーが出ると予想されるが「それを工業的に利用 できるなどというのは夢のような話だ。」と新聞記 者に向かって語っていたと伝えられている。しか し、それから6年後の1938年クリスマス前日、ベ ルリンのカイザー・ウイルヘルム研究所でオッ トー・ハーンとフリッツ・シェトラースマンの二 人がウランの核分裂を発見し、この発見を端緒と して原子核エネルギーを人間が手中にする時代が ひらけた。 ハーンとシュトラースマンの発見の持つ重要な 意味はただちに、デンマークの物理学者で、量子 力学の建設者であるニールス・ボーアの認識する ところとなった。中性子によるウランの核分裂発 見のニュースをいちはやくアメリカに伝えたのは、 学会出張のため、1939年1月中旬に渡米したニー ルス・ボーアである。ボーアのアメリカ到着約 1 週間前の1月9日にはイタリアの物理学者エンリ コ・フエルミがアメリカにのがれ、コロンビア大 学の教授に就任していた。イタリアでもベニト・ ムッソリーニの政府はヒットラーの影響を強く受 けて、人種差別の法律を制定し、そのことが1938 年ノーベル物理学賞を授与されたフエルミの身辺 にすらユダヤ系と目されて危険を及ぼしつつあっ たのである。ボーアのもたらしたウラン核分裂の ニュースを受けとめ、それを原子核エネルギー解 放の方向へ推進したのは、アメリカでのフエルミ とその研究グループであり、彼らは原子炉を試作 し、それによって、制御された核分裂の連鎖反応 を実現することに努めた。この研究は1939年1月 コロンビア大学でスタートし、その後フエルミは シカゴ大学に移って、そこで仕事を完成した。 1942 年12 月2日シカゴ大学のエンリコ・フエル ミ研究所は人類最初の連鎖反応を成し遂げこれに よって制御された核エネルギーの解放がはじまっ たのである。 ハーンのウラン核分裂発見のニュースを知って、 この発見が原子爆弾につらなることを予想した 1 人にハンガリー生まれの物理学者レオ・シラード があった。シラードはベルリン大学に学び、のち 一時期をロンドンで研究生活を送り、1938年にア メリカに亡命した人ではやくから核分裂の連鎖反 応の可能性を考えており、ハーンの発見を知ると フエルミと接触するとともに、原子核エネルギー の意義についてアメリカ政府の注意を嗅起すべく 運動をはじめた。このシラードのアメリカ政府へ のはたらきかけは、連鎖反応研究をすすめるのに 必要な資金援助を求めることを目的としたもの だったが、同時に解放される核エネルギーは兵器 に利用しうる可能性があり、もしナチス・ドイツ がそのような破壊的武器の製造に成功するならば、 - 2 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 1(2) May, 2001 それは連合国、ひいて世界の民主主義にとって決 定的な脅威となることを指摘し、それに対抗すべ き用意を政府に勧告する趣旨をも含んでいた。 1939年10月にシラードが執筆しアインシュタイ ンの署名を求めてそれを添えたルーズベルト大統 領あての手紙は、万一ナチス・ドイツがアメリカ に先がけて原子爆弾を手にすれば、その危険はは かり知れないものがあるとのべている。 合衆国政府は連鎖反応の開発計画に対する資金 援助を決定し、つづいて原子爆弾の製造について の検討をはじめ、1941年の春には、国防委員会が 国立科学アカデミーにウラン研究の軍事的重要性 についての調査を要請している。国立科学アカデ ミーは特別委員会を設けて作業にとりかかり、こ の年の秋までにウラン及びプルトニウムを用いる 原子爆弾開発が開発可能であるという結論に達し た。この結論をうけて、国防委員会が核兵器の製 造にふみきることを決定し宣言したのは、1941年 12 月 6 日、日本時間では 12 月7 日、日米開戦の 前日のことである。このようにして、原子爆弾製 造のための「マンハッタン計画」がスタートし莫 大な経費と人力を投じ、産官学の連携のもとにこ の仕事にとりくみ、3年の日時をついやし、1945 年7 月 3 個の原子爆弾を完成した。そのうちの 1 個-内破型プルトニウム爆弾が7月16日ニューメ キシコ州アラモゴードの砂漠で実験に供された。 これが人類初の原子爆弾の爆発である。その直後 に、のこりの 2個の原子爆弾、リトル・ボーイと ファットマンはマリアナ群島テニアン基地に移さ れ、8月6日広島にウラン爆弾リトル・ボーイが、 8 月9 日長崎にプルトニウム爆弾ファット・マン が投下された。 シラードやアインシュタインの懸念にもかかわ らず、この時期ナチス・ドイツでの原爆開発の動 きは予想されたほど進んではいなかった。1941年 4 月までにカイザー・ウイルヘルム研究所の物理 学舎たちは、核分裂についての研究をふまえて、 核爆発を起こすために十分な臨界量のウラニウム 235同位元素をつくり出すのに必要な量について の手がかりを得ていた。当時フリッツ・ホウテル マン教授が書いた報告は「ウラニウム235の高速 中性子連鎖反応および臨界質量-集積すると自発 的な連鎖反応および激しい爆発を起こす質量」- につて明確な計算を最初におこなったものであっ た。ドイツの軍需省アルベルト・シュベーアは、あ る会議にドイツの優秀な物理学舎たちを招請した が、その会議でノーベル賞受賞者のウエルナー・ ハイゼンベルグが参謀幕僚¥にどのように核分裂 を利用すれば原子爆弾ができるかを説明した。ハ イゼンベルグによれば、アメリカ人たちは、2 年 間で原爆を作れるのであろうし、ドイツの場合で も政府が充分な財政援助をすれば少なくとも同じ 時間でできようということであった。シュベーア はヒットラーにこの計画を 6 月23 日(1940)に 手短かに説明したが、この計画には熱心な支持を 得られなかった。科学者たちが述べた原爆完成に 要する時間は当時のドイツにとって魅力的ではな く、戦争は原爆をつくり出す以前にドイツの軍事 力の優位性によって終わると見ていたのである。 このためドイツの原爆開発計画は必要な最優先順 位を得られず、計画は進行したものの「全速前進」 ではなかった。この計画がもともとユダヤ人物理 学舎アルバート・アインシュタインの創見に基礎 を置いているということも、ナチスの歪んだ思想 からすれば価値を公認しえないものであったとも みられよう。 日本では 1940 年 4 月までに帝国陸軍航空技術 研究所長安田武雄が、核分裂は日本も看過できな い分野であるとの結論に到達していた。そしてこ の問題は 依託研究にだされ、日本における核 兵器開発の責任は、コペンハーゲンでニールス・ ボーアのもとで研究したことのある仁科芳雄に負 わされた。仁科は部下の若い物理学舎をサイクロ トン原子核グループ、宇宙線グループ、理論グ ループ、放射線の生物に与える影響を追求するグ ループの 4 つの研究班班わけ、理化学研究所に 拠いて作業を進めた。日本がウラニウム鉱石の入 手の点で不十分であることはわかっていたが、朝 鮮とビルマにウラニウムの資源の可能性があると 考えられ仁科グループは日本で原爆の製造は可能 であると報告した。これをふまえて1943年5月田 中館愛橋教授は帝国議会貴族院本会議で「マッチ 箱大くらいの大きさの爆弾が莫大な爆発を行い軍 艦1艘を沈めうる見込みがついている」と述べた。 しかし議員たちは、この発言にとくに強い印象は 受けることなく、原爆開発のための巨額の研究費 の予算は実現しなかった。仁科グループの若手の 研究者たちは、1944年1月フッ化ウラニウムの精 製、その結晶の製造に成功したが、原爆製造に達 することなく研究は中断したのである。 II;日本への原爆投下への過程 1945年春欧州の戦局は連合国軍有利に展開し、ド イツの敗北が決定的になるとともにドイツは実際 には原爆をつくっていなかったことが判明すると、 原爆完成へと進んでいたアメリカの計画を駆り立 - 3 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 1(2) May, 2001 てていた科学者たちの論理は空虚なものとなった。 しかしマンハッタン計画は成功に近づきつつあっ たので、その状況下にあって原子力問題の処理と 戦後への展望、政策を検討するためアメリカでは 陸軍長官ステイムソンを委員長にブフンエ・コナ ント他8名をおよびその他を補佐する科学顧問団 (コンプトン、ローレンス、オッペンハイマー、フ エルミ)が設けられ、暫定委員会と名づけられた。 暫定委員会はステイムソンによって設置されたも ので、原子力におけるアメリカの優位を戦後も維 持することをもねらっていた。5 月21日と6 月1 日の暫定委員会で対日無警告原爆投下の方針が確 認されたあと、シカゴに戻ったコンプトンは6月 半ばにひらかれる科学顧問国の会議に提案できる よう、6 つの委員会(研究計画、社会的政治的意 味、教育、生産、管理、組織)を発足せしめた。そ の中の1つであった、フランクを委員長とする「原 子爆弾の科学的政治的意味を検討する委員会」は いわゆるフランク報告を6月11日までにまとめた が、それは原子爆弾の破壊力、戦後の核軍備競争、 安全保障、原子力の国債管理問題などの分析に加 えて対日無警告投下問題について、不使用あるい は非軍事的示威実験に止めることが望ましいとの 見解を述べている。 報告が出来えるとフランクはワシントンにむ かった。コンプトンには会えたが、陸軍長官ステ イムソンには面会できなかった。一方シカゴでは フランク報告に対する支持署名がシラードの発表 で行われたが、それは機密扱いとされ数人の署名 集めたものの頓挫した。また批評活動が展開され、 一方で「フランク報告」を支持するものもあれば、 他方では、「ランリ報告」の提案する爆弾使用に先 立つ示威実験に反対し軍事目標に対して、使用す べきとの意見も出された。こうした状況を憂慮し たシラードは個人的に大統領宛の請願文書(7 月 3 日付)を起草し「原子爆弾はアメリカ軍の手中 にあり、爆弾使用の載定は大統領にあるが、日本 に対し降伏条件を提示し日本がこれを知りながら 降伏を拒否した場合を除き、アメリカは原子爆弾 の使用を正当かされえない。それにもかかわらず、 日本が降伏を拒否した場合には、原子爆弾の使用 を余儀なくされるであろうが、その使用の決定に あたっては原子力の分野で優位にあるアメリカは あらゆる道義的責任を考慮すべきである。」という ものであった。 シラードはクリントンにも請願書を配布し、二 人の署名を得た。クリントンではそれと別に67名 の署名を得た要望書が起草されたが、その概要は、 「米国政府と国民は原子兵器の社会的、政治的結果 については、特別の道徳的責務を負っている。原 子力兵器の威力を実演し、これを世界の人々に知 らせ、人々の多数の意見が平和維持の決定的安素 になっていくようにするべきである。このような 方策をとることが、原子兵器の有効性を高め、将 来の戦争防止の力になると思われるからである。 われわれは、日本に対して、原子兵器の威力を充 分に抽出・実演し降伏を拒否することがどのよう な結果を導くかを考慮させる機会与えることを勧 告する。」というものである。 クリントン研究所では、シラードの請願に疑問 をもったG・W・バーカーらがこれに対抗して、日 本に原爆を投下すれば、早期に戦争が終結し、ア メリカ兵の命を救うことができるとの陳情を研究 所の管理局へ行った。また、同研究所のモンサン ド・ケミカルのE・J・ヤングはM・O・ホワイテッ カーあての7月14日付の手紙で「ドイツは降伏し た時点で残された日本が原子爆弾を製造できるよ うな技術を持っているわけはなく、科学者たちは、 計画遂向の目標を失った。ではあるが、無抵抗の 中国をふみにじりまた真珠湾を奇襲した日本の侵 略を止めさせ世界ができるだけ早く平和を取り戻 すためには、もっとも強力な兵器で海外にいる同 胞を支援することが、適当である。」と記してい た。彼らの意識を占めていたのは、近隣の諸国を 侵略する日本をおさえ、勝利するためにはなんと しても新兵器に“原子爆弾”を完成させ、海外の 前線で戦っている同胞を助けなければならないと の思いであったようだ。対日無警告原爆投下を強 行すれば、道徳的観点からいってアメリカの立場 は弱くなり、国際管理の実現の可能性は遠ざかる というシクード・フランタらの見解は、原爆投下 による戦争の早期終結が望ましいとするオッペン ハイマー、コンプトンらの上からの懐柔によって、 封殺され、グローブスら軍当局者および政治上層 部、最終的にはトルーマン大統領の載断によって ヒロシマへの無警告原爆投下は実効された。 このトルーマンを「非人道的かつ不必要な都市 破壊の罪で裁こうとする動きは、21世紀に入った 今日でもなお継続しておりインターネットの歴史 学ホームページ「ヒストリー・ニューズ・ネット ワーク」上でアメリカの知識人の間で交わされた 論議でも、検事役をつとめたジャーナリストのフ イリップ・ノビーレが「実験段階の恐怖兵器によ る広島・長崎の抹殺を命じ、約20万人口日本人を 虐殺した告発する一方、弁護約を担当したメン バーは「日本が降伏せず、米軍が本土上陸を決行 - 4 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 1(2) May, 2001 すれば、日本側に数百万人の死者がでたはずだ」 と論じ評決理由でトルーマン有罪派の陪審員は 「当時日本降伏寸前であり原爆投下は不必要であっ た。」とした。しかし結局陪審は 7:2(棄権)で トルーマン無罪の評決を下したということである。 (2001 年8 月3 日) III広島と長崎への原爆攻撃 1945年8月6日早朝テニアン基地を発進した米 軍気象観測機1 機は高度1万メートルで広島に接 近、後続のB29エノラ・ゲイ号に向け、晴天で攻 撃可能の旨を打電し広島の中国軍管司令部は午前 7 時9 分警戒警報を発令、観測機は間もなく退去 したので午前7時31分警報を解除、その後エノラ・ ゲイ号は2機の観測機とともに東北方向から広島 上空に侵入し、午前8時15分17秒に広島9600米 で原子爆弾を投下、43秒後に爆発、爆発点は瞬間 に最高セ氏数百万度数十万気圧となり、火球の形 成とともに強力な熱線と放射線が短時間に四方に 放射された。 1945年8月9日早朝テニアン基地を飛び立った 原爆搭載機とB29、2機編隊は午前9時30分ころ 第一攻撃目標の小倉上空に到着した。しかし、小 倉上空は雲におおわれていたので、10分間ほど旋 回したのち第2目標の長崎へ向かった。長崎上空 も雲におおわれていたので、レーダーによる爆撃 態勢を準備したが、爆撃寸前に雲の切れ間を発見 しそこに第1目標の三菱重工長崎造船所ではなく 第2目標の三菱重工長崎兵器製作所をとらえるこ とができたので直に原子爆弾を投下、原爆搭載機 は急旋回して退避した。ときに日本時間午前11時 2分であった。高度は1976年にそれまでのデータ を解析し直し503 ±10m とされた。 IV1945 年8 月の広島- 救護と医療 1945年8月以前、広敷県・広島市は防空法(昭 和12年10月施行)および戦時災害保護法(昭和 17年2月公布)の2つの法律に基づき防空対策を 進め、県-市防空本部の設置、建物及び人員疎開、 医療救護体制の整備、医薬品の備蓄などの措置を 講じていた。しかし、これらの対策は当時日本各 都市が蒙つつあったアメリカ軍による通常の戦略 爆撃を予想したものであったから、8 月6 日朝原 子爆弾災害のなかで広島は一時自失状態に陥った。 医療対制としては、昭和18 年広島県知事告示に よって、医師1、薬剤師1、看護婦3、事務員1、計 7 名でひとつの救護班を組織し、この救護班を中 心に町内会や、警防団が、それぞれの地方の救護 にあたることになっていたが、このように確保し た広島市内の医師298名のうち、270名が被爆し、 薬剤師、看護婦も 80 ~93%が罹災、いずれにも 高率に死者を生じた。防空本部としての県府、市 役所自体も人員、建物ともに深刻な打撃を受けた。 県庁全焼のため翌7日早朝本部を東警察に移し午 前10時から、在広陵海軍、各官公庁合同の罹災対 策協議会を開き、被災後の広島の整備には第二軍 があたり、実際上船舶司令官が被爆対策の総指揮 に任ずることとなった。この広島整備本部はまず 市内の比治山西側聖橋など11 カ所に救護所を設 置し、陸海軍および広島県が分担して救急、治療 の他食糧、飲料水の確保、死体の収容、防疫対策、 被災地域の整備通信交通の復旧などつとめた。こ の作業に左右軍関係諸部隊の果たした役割は大き かったが、このような軍主導の罹災対策は8月15 日敗戦を機として終了した。 当初、11カ所開設された救護所は自然発生的に 増加し広島市内だけでも、53カ所に達した。救護 所での医療に当たったのは、軍関係のほか生存し た市内の医療関係者、外部からの救護隊(医師会、 病院、大学関係者)であった。会員から、約60名 の即死者を出した広島市医師会は被爆数日後会長 吉田寛一を失ったが、8 月14 日約 30 名の会員が 集まって後任会長に京極一之を選び、以後10月5 日救護活動を日本医療団病院へ移管するまでの間 救護医療に従事した。また、歯科医師会、薬剤師 会も救護活動に従事した。 救護のため広島市に入った県内医療関係者は傷 痍軍人広島療養所、尾道市医師会、豊田郡医師会、 高田郡医師会、双三郡医師会、賀茂郡北部医師会、 甲奴郡医師会、神石郡医師会、安佐郡医師会、呉 市医師会、三原市医師会、世羅郡医師会、比婆郡 医師会はじめ呉共生会病院、尾道、竹原、呉、三 原、福山、府中、西条の各保健所などで、9月末ま でに出動実人員2.557名、延べ21.145名にのぼっ た。県外からは、岡山医師会、島根、山口、鳥取、 兵庫、大阪府の医師会であり、また山口赤十字病 院、岡山赤十字病院、鳥取赤十字病院からも救護 班の派遣があった。陸軍軍医学校、防町東京第一 陸軍病院は8月8日に調査班を送ったがその後近 山大佐を指揮官とし大橋成一ら144名から成る特 設救護班を編成派遣し、9月12日から、10 月10 日まで広島陸軍宇品分院で医療にあたらしめた。 市内の救護所数は8月9日までの53をピークに漸 滅し 10 月5 日には11 カ所となるが、8 月5 日か ら10月5日まで救護所が収容した人員(8月6日- 10日は記録がない)は累計105.561名、外来診療 - 5 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 1(2) May, 2001 を施した者は210.045名に達した一方罹災者は被 爆当日から 続として広島市に隣接する安芸郡、 佐伯郡、安佐郡の各町村に避難移動し、その数は 安芸郡45.000名、佐伯郡20.000名安佐郡52.000 名その他双三、比婆、豊田、山県、高田、賀茂の 各郡あわせて約15 万名に及んだと推定される。 被爆当時広島市内の重要な公共的病院としては、 広島赤十字病院、広島通信病院、三菱重工業内病 院、広島陸軍共済病院、広島県立病院などがあっ た。これらの病院はいずれもはなはだしい人的、 物的被害を受けたが、負傷者の救護医療の重要な 拠点として機能を果たした。広島赤十字病院(院 長竹内銀、副院長重藤文夫)は爆心地から約 1.6km の千田町 1 丁目にあり、病院本部は大破、 付属建物は焼失、看婦生徒408名を含む職員約85 %、入院患者約250名の半数に死傷を生じた。被 爆直後から負傷者が殺到し、応急に対応しつつ、 漸次原爆症治療に中心的役割を果たすに至った。 広島通信病院(院長蜂谷通彦)は爆心地から 1.3kmの基町6番地にあり、被爆と共に大破、約 40名の出勤職員の大半が負傷、6日午後から負傷 者が集まり、7 日朝までに軽症200 名を処置、重 傷2.500名を収容、以後9月中旬まで常時約2.200 名の入院があった。三菱重工は南 音(4.3km)江 波(4.5km)に病院があり、いずれも被害は比較 的軽かった。6 日午前からそれぞれ約 1.000 名の 負傷者を受け入れている。広島陸軍共済病院は宇 品町1丁目(3.2km)に開設されていた陸軍船舶 司令部管轄の病院で、被爆後負傷者が医療に従事 し、10月日本医療団宇品病院、のちに広島病院と なった。8月10日から東京大学都築正男ら約10名 が来院し、約20 日間被爆者医療及び調査にあた り、ついで京都大学菊池武彦らが、調査、診療の ため滞在した。当時の広島県立病院は水主町 (800m)にあり、病床250床、敷地役25000㎡の 施設を持っていたが、被爆にあい全焼、全壊し病 院ないで被爆した職員の大部分は即日または数日 後に死亡、わずかに残った職員は8 月9日古田国 民学校に救護所をひらき、9 月草津国民学校に移 り、被爆時負傷した石橋修三に代わって黒川巖が 院長となった。京都大学の調査および病理解剖の 一部は草津救護所で行われた。1946年3月県立病 院は閉鎖され、職員は患者とともに日本医療団に 移管された。 軍関係病院では広島第一陸軍病院本院(基町 1 番地)第一分院(西練兵馬内)広島第三陸軍病院 本院(基町)はそれぞれ爆心地に近く莫大な被害 をこうむった。被爆直後ただちに救護活動に入っ たのは、第一陸軍病院江波分院と同戸坂分院であ り、また第二陸軍病院本院および三滝分院の生存 職員はそれぞれ現地に止まって軍人、市民の治療 にあたった。第一、第二陸軍病院の各地疎開分院 からは 12 の救護班が出動、8 月6 日から 10 月頃 まで、戸坂分院、第二陸軍病院本院跡、陸軍船舶 練習部で医療活動に加わった。大野陸軍病院も救 護班を出して300名に応急処置を施し、同病院本 院および大野西国民学校に負傷者1.400名を収容 した。その広島 陸軍病院関係の扱った収容負傷 者は45000名を越える。海軍関係では岩国海軍病 院(収容負傷者51名、全員死亡8月6日-18日)、 呉海軍病院(収容負傷者73名8月6日-9月18日) 呉海仁会病院(収容負傷者 8 名8 月19 日-9 月5 日)呉海軍病院臨時病会(収容負傷者79名9月6 日-30 日)などが被爆者の収容治療にあたった。 V:1945 年8 月の長崎 - 救護と医療 1945 年8月、長崎は厳重な防空体制下にあった。 要塞地帯として、1941年以来特に整備が強化され ていたばかりでなく、1944年4 月26日、7月29 日、7 月31 日、8 月1 日5 回の空襲を経験したこ とも、防空体制の整備をうながした。1944年9月 には長崎防衛本部が設置され、1945年2月には長 崎県総動員整備協議会が組織されている。救護体 制は市医師会を中心に編成され、救護本部に下に 新興善国民学校、勝山国民学校、伊良林国民学校、 日本赤十字社長崎支部、 屋国民学校、稲佐国民学 校など22カ所の救護所が指定され、327名の救護 要員が予定されていた。また長崎医科大学および 三菱病院が主要な救護センターとしての役割を 期待されていた。 8月9日の原爆投下は、しかしながら、長崎の場 合もあらかじめ準備された防空、救護体制の可能 性を超える深刻な災害をもたらした。ことに爆心 地と市内の境界地域がおくれて発生した大災害の ため、防空本部の状況把握は困難をきわめた。 爆心地は「中心爆発点ヨリ半径400メートル以内 ニ在リシ人畜ハ防空壕ニアツて数名ヲ残して全部 即死セル状況ニシテ、 ナル ト モ全部飛散 シ一物モ在セザル」有様であった。爆心から700m 東南の長崎医科大学本館、基礎医学教室は崩壊、 消失し、教授以下教室員のほとんどが爆死または 被爆後死亡した。講義室で受講中被爆死をとげた 学生の数は、学部、医学専門部在籍1・2年生役580 名中414 名に及んだ。附属病院は地下1階、地上 3 階の鉄筋コンクリート建でえ辛うじて外形を 保ったものの、内部は完全に破壊され火災を生じ た。死傷者続出し、多少余力ある者は穴弘法の丘 - 6 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 1(2) May, 2001 に這いあがり約300名が一夜を明かしたが、約半 数は翌朝うごかぬむしろとなっていた。外科学の 教授であった調来助は8 月9日午後から負傷者の 応急手当にあたり、みずからの疎開先であった滑 石に2カ所の建物を借り受け、12日学長角尾普以 下の医科大学関係の負傷者をここ滑石救護所に移 した。調来助以下13名の医師、学生、看護婦は12 日から17日まで100名をこえる被爆者の治療、看 護にあたった。18 日生存中患者を新興善救護所、 大村海軍病院へ転送し、阪救護所を閉じた。放射 線科の永井隆ら12名は、長崎市外三ツ山地区で8 月12日から10月8日まで巡回診療の方法で被爆 者ぼ医療に当たった。 浦上第一病院は爆心地から約1.4kmへだてた木 原の丘の上にある。聖サンフランシスコ修道院経 営の病院で、被爆当時結核患者約70名を収容して いた。爆風により、内部は破壊され、その後発火 して医療器械、薬品を焼失したが、浦上地区に残 存した唯一の病院として、被爆者医療を担った。 同病院医師秋月辰一郎らは、8月10日から診療を はじめ、12日には県警察警備隊及び川南工業奉仕 隊が入って病院療地を整理し、木原に救護所を開 設した。被爆直後山里国民学校に「一日救護所」が 置かれたが、木原町一帯の被爆者はなお多数の者 が未処置のまま防空壕のなかに止まっていた。浦 上第一病院木原救護所は秋月らの努力によって活 動を続け、1948年12月聖フランシスコ診療所(院 長ブルダン神父)として施設を再建した。 造船、兵器、製鋼、電機の三菱系4 社のおかれて いた長崎市内には、鮑之浦町(約3.5km)に三菱 病院本院が、船津町(約3.0km)船津町分院、茂 里町(1.1km)に浦上分院があった。そのうち船 津町および浦上の分院は全壊または火災を生じた。 本院も若干の被害を受けたが、総力をあげて救護 の任にあたり、病院のほか 鮑の浦国民学校をも 仮病院として、多数の負傷者を収容した。 あらかじめ救護所に予定されていた新興善、勝 山、伊良林、磨屋などの国民学校、長崎経済専門 学校などへは、被爆直後から負傷者が集まり、ま た爆心地に近い城山、山里の国民学校、市立商業 学校、道ノ尾駅付近でも次第に救護活動がはじめ られた。これらの救護活動は生存した長崎市医師 会員のほか、諫早海軍病院、大村海軍病院、諫早 市医師会、小浜医師会、島原市医師会、三菱病院 救護班、針尾海兵団、佐世保海軍病院武雄分院、久 留米陸軍病院、福岡陸軍病院などの救護班によっ て行われた。長崎経済専門学校には、鎮西集団命 令によって軍関係、医療関係者200名近くが入り、 8月16日から仮編成216 病院を開設し、9月 2日までの間に負傷者305名(うち161名死亡)を 収容加療した。新興善救護所へもっとも早く入っ たのは針尾海兵団第一救護隊でこの隊は8月10日 午後新興善国民学校に入り、翌日浦上へ出動した。 同11日に代って佐世保海軍病院武雄先進隊が、さ らに12 日武雄分院救護本隊が入り、15 日には武 雄分院からの薬品衛生器機が到着した。8月16日 には針尾派遣隊第2次救護隊が加わり、以後新興 善救護所は特設救護病院とした運営されたが針尾 派遣隊は8月21日武雄派遣隊は9月5日撤収し長 崎医師会が代わって新興善救護病院の実績を継承 した。この病院は10月6日に長崎医科大学との が決定し、10 月23 日に正式に長崎医科大学附 属病院(院長調来助)となった。針尾海兵団派遣 救護隊の報告によると、8 月17 日から31 日まで 外来患者延べ3.991名在院患者延べ3.936名、入 院370 名、退院53 名、死亡154 名であった。ま た、新興善病院では東京帝国大学、九州帝国大学、 熊本医科大学、山口県立医科専門学校などの救護 班、研究班がそれぞれ作業に従事した。 被爆者の多くは、市外へ避難、被爆者などの市 外への輸送に重要な役割を果たしたのは、いわゆ る救援列車で、被爆当日の 8 月 9 日午後一時から 夜半までの間に4本の列車が運行され、道ノ尾-浦 上駅間の中間地点から、諫早、大村、川棚、壱岐 などへ総計およそ3.500 名の負傷者を輸送した。 徒歩、トラック、列車などで市外に逃れた負傷者 を受け入れたのは、時津村(時津国民学校収容521 名。死亡96名、万行寺収容356名、死亡45名、8 月18日まで)長与村(長与国民学校収容762名、 死亡96名)茂木町( 収容約80名) 上村(森 医院など収容約200名)などの各隣接町村であり、 諫早市にも数千名の負傷者が入った。長崎近郊で 長崎からの負傷者収容にあたった病院としては、 佐世保海軍病院諫早分院、大村海軍病院、川棚海 軍病院、針尾海兵団、佐世保海軍共済病院、さら に県外では嬉野海軍病院、鹿児島原爆被災者収容 所、佐賀陸軍病院、久留米陸軍病院、九州帝国大 学附属病院、熊本医科大学などがある。大村海軍 病院はアメリカ軍による接収をまぬがれ、10月は じめから長崎医科大学の残存職員が医療に参加し、 長崎医科大学はこの病院で講義を再開した。大村 市には海軍病院のほか、大村陸軍病院、回生病院 などがあり、市内各所に収容された負傷者は 4.000 名にのぼったといわれる。 VI原爆被災の調査研究 -日本 - 7 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 1(2) May, 2001 1945年8月6日広島に原子爆弾が投下された直 後から災害調査と研究が始められた。それは軍や 行政機関が企画し大学、研究所の科学者の協力に よって始められたもので、8 月 6 日呉鎮守府調査 団、8月8日技術員調査団、大本営調査団、陸軍省 調査班、海軍広島調査団、8月9日西部軍派遣調査 団、8月10日京都大学調査団(陸軍京都師団の要 請による)、大阪大学調査団(海軍の要請による) 8月14日に陸軍省第2次調査班がそれぞれ広島に 入った。これらの調査団には、仁科芳雄、玉木英 彦、木村一治、村地孝一。(理化学研究所)松前重 義(技術院)杉山繁輝、荒勝文策、(京都大学)浅 田常三郎、尾崎誠之助、(大阪大学)大野章造、篠 原健一(九州大学)島田暮夫、松永直、山科清、成 田久一、山岡静三郎、山田正明、桑田岩雄(陸海 軍軍医)など、物理工学、医学の専門家が加わっ ている。長崎では8月10日長崎地区憲兵隊、8月 14日呉鎮守府調査団などが初期調査を行い、8月 13日には篠原健一、8月14日仁科芳雄が視察のた め入市した。 広島での各調査団の作業は精力的に進められ、 8月10日には大本営調査団が主催して比治山南の 兵器補給廠で陸海軍合同の研究会議が開かれ、こ の会議で投下された爆弾が原子爆弾であることが 確認された。原子爆弾の確認は仁科芳雄の指導に 負うところが多く、仁科は災害状況、保存フイル ムの感光状態などから原爆であると推定し、また 8月10日資料を理化学研究所に送って放射能を測 定させた。理化学研究所からは、玉木英彦、木村 一治、村地孝一ローリンツエン検電気を携え陸軍 省第2次調査班と共に8月14日広島に着き、以後 8 月 17 日まで市内各所で放射能の測定に従事し た。 人体における被爆の影響を明らかにする上で重 要な初期の病理解剖は、山科清、(8 月 10 日-15 日、12 例)杉山繁輝(8 月 11、12 日 3 例)によ り似島検疫所でおこなわれた。この15例に岩国海 軍病院の2 例、傷痍軍人広島療養所の 3例および 針尾海兵団救護班の5例と25例が被爆2週間以内 の原爆初期病理解剖例である。 8月15日の敗戦はやがて連合軍の占領体制に移行 し、国内の諸状況に多くの変化をもたらすが、そ の影響が次第に現実のものとなる以前に8月下旬 から9月上旬にかけて、各大学、研究機関による 広島・長崎に対する調査、および救護の活動が開 始された。東京大学では都築正男が中心となり、8 月22日陸軍軍医学校長井深健次と協議の上、陸軍 軍医学校、理化学研究所の協力のもとに東京大学 調査団をまず広島に送ることに取り決めた。東大 からの参加者は、都築正男を団長に石橋幸雄(外 科)中尾 嘉久(内科)三宅仁・石井善一朗(病 理学)らで、陸軍軍医学校から御園生圭輔、山科 清、本橋均ら、理化学研究所から杉本朝雄、山崎 文男らが加わった。5月29日東京を発ち、30日に 広島に入った。三宅らは8月30日から9月8日ま でに26例の病理解剖を行い、中尾らにより血液学 的調査、石橋らにより熱傷、外傷の外科的調査が すすめられた。9 月 2 日には放射能(山崎文男)、 血液学(本橋均)、熱傷外科(石橋幸雄)、病理学 (三宅仁、山科清)などのテーマについて研究会を 開き、9 月3 日都築は記者会見して調査結果を公 表した。 京都帝国大学に対しては8月27日中部軍管区司 令部が、井衛護 を派遣して調査を要請し京都 大学はこれに応えて、8 月末までに研究班を組織 した。班員は舟岡省吾(解剖学)、杉山繁輝(病理 学)菊地武彦、真下俊一(内科学)、ら40名にの ぼり、2班に分かれて9月3日から4日にかけて広 島に入った。東京大学調査団が宇品を基地とした のに対して、京都大学研究班は大野陸軍病院を基 地とし、牛田国民学校にも診療班をおいた。杉山 らは9 月5日から17日までに22 例の病理解剖を 行い、これに杉山の初期解剖3例を加えた25例は 大野重安により精査記録された。京都大学研究班 の不幸は、9月17日枕崎台風による大津波のため 大野陸軍病院が倒壊し真下 、杉山繁輝、大久 保忠雄、島本光顕、西山真正、堀 太郎、島谷き よ、村尾誠、原祝之、 苑谷 一、平田耕造 の殉職者をだしたことである。このため全学をあ げて計画された京都大学の大規模な総合的現地調 査は挫折に至った。 広島県立医学専門学校は戦争末期に閉校し被爆 直前広島県高田郡甲立町に疎開した。市内の本校 舎は被災し、研究活動は停止したが、玉川忠夫(病 理学)は広島通信病院(院長蜂谷通彦)の協力を 得て、8月29日から10月中旬にかけ19例の病理 解剖を行った。9月11日岡山大学救護隊(隊長林 道倫)が広島に入り、被爆者の救護にあたるとと もに玉川の病理学的調査をも援助した。 東京帝国大学伝染病研究所へは広島県衛生課から 調査要請があった。急性被爆症状のひとつに下痢、 血便があり、赤痢などの腸管伝染病が疑われたの である。伝染病研究所は草野信男ら5名を広島に 送った。草野らは、8月29日広島に着き、まず宮 島で病理解剖をおこない、ついで西条の傷痍軍人 広島療養所に赴いた。広島療養所は、被爆直後か - 8 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 1(2) May, 2001 ら救護活動に従事し、また8月16 日から白井勇、 沢崎博次、小笠原良雄らが病理解剖をおこなって いた。さらに草野の指導を得て、11月までに21例 の病理解剖を記録している。 長崎へは8月下旬から 9月上旬の間に九州帝国 大学、熊本医科大学、山口県立医学専門学校など の調査、救護班が入った。 九州帝国大学は福岡県の要請を受けて、8月11 日竜田信義ら28 名からなる第一次救護班を長崎 に送り、この救護班は8月12日から16日まで、新 興善および山里国民学校救護所で治療にあたった。 これと交替で約30名の第二次救護班らが送られ、 8月30日沢田藤一郎(内科)らが長崎に入り、以 後9月上旬から下旬にかけて中島良貞、石川敏夫 (放射線治療学)、小野興作、今井環(病理学)な どの主として新興善を基地として調査をすすめた。 小野興作らは、この関西部軍管区216兵 病院 となっていた長崎経済専門学校および新興善救護 所で14 例の病理解剖を記録している。 熊本医科大学原子爆弾災害調査班は、放射線医 学(亀田魁輔ら)病理学(鈴江懐ら)主として編 成され、9月3日から8日まで長崎に入った。鈴江 らが9 月5日から 7日までにおこなった病理解剖 は18例である。また、山口県立医学専門学校に、 富田雅次校長以下家森武夫、小沢政治、門田可宋 ら教授6名、助教授1名、学生18名より成る研究、 治療班を組織し、9月12日長崎に着き、20日まで に調査と救護に従事した。家森らは9月14日から 20 日までの間、新興善救護所で14 例の病理解剖 を記録した。新興善救護所は10月6日長崎医科大 学に移管された。 VII:原爆災害調査と研究 - 学術会議特別委員会 一方中央では、理化学研究所、文部省科学教育 局および学術研究会議の間で、9月14日学術研究 会議、「原子爆弾災害調査研究特別委員会」を設け ることを決定した。文部大臣(前田多門)による 正式任命は10月24日であった。この特別委員会 は、物理化学地学分科会(科会長西川正治、委員 仁科芳雄、菊池正士、嵯峨根遼吉、木村健三郎、小 島三一郎、篠田栄、渡辺武男)生物学科会(科会 長真島正市、委員野田尚一、三島徳七)土木建築 学科会(科会長田中豊、委員武藤清、広瀬孝太郎) 電力通信学科会(科会長瀬藤象二、委員大橋幹一) 医学科会(科会長都築正男、委員中泉正徳、菊池 武彦、大野章三、井深健次、福井信立、石黒浅雄、 横倉誠次郎、金井泉、勝俣稔、古屋芳雄)農学水 畜産学科会(科会長雨宮育作、委員浅見与七、川 村一水)林学科会(科会長三浦伊八郎、委員中村 賢太郎)獣医学科会(科会長増井清、委員佐々木 清網)の9分科会から構成され、委員長に林春雄、 副委員長に山崎直輔、田中芳雄が就任した。医学 科会にはその後さらに田宮猛雄、佐々貫之、三宅 仁、木村康、舟岡省吾、森茂樹、高木耕三、木下 良順、布施信義、福島憲四、神中正一、中島義良 貞、小野興作、沢田藤一郎、林道倫、古尾野公平、 平井正民、らが委員として加わった。 特別委員会の発足と並行して、日本映画社は原子 爆弾災害記録映画の制作を企画し、記録映画班 (プロデユーサー加納竜一、演出奥山大六郎、相原 秀次、伊東寿恵男)を組織した。記録映画部は特 別委員会の補助機関として科学者と協力して映画 製作にあたった。 特別委員会の組織により、各大学研究機関、病 院などの仕事は連絡集成され、研究費の配分もお こなわれて、以後1947年まで調査研究がすすめら れた。その調査、研究の重要な成果は後に日本学 術会議が「原子爆弾災害調査報告刊行委員会(委 員長亀山直人)を設けて整理編集につとめ、1951 年8月「原子爆弾災害調査報告書総括編」1953年 5月「原子爆弾災害調査報告集」第1分冊および第 2分冊として日本学術振興会から出版された。「原 子爆弾災害調査報告書」は両分冊あわせて 1.642 頁、所収の報告は理化学38編、生物学6編、医学 130 編にのぼる。 この研究体制が中断することなく活動を続け、 ひきつづいて組織的な調査、研究を展開したなら ば、原子爆弾調査の研究の歴史は全く異なった経 過をたどったに違いない。しかし現実には1947年 までの3年間、実質的には1945年後半を中心に1 年半あまりの活動を以てその仕事は中断し、その ままの形での継続発展はなかった。それは敗戦に ともなう教育、学術研究体制の刷新変革に影響を 与えたためでもあるが、最も深刻に作用したのは 占領体制である。1945 年9 月19日、連合国総司 令部はプレス・エードを指令し言論、報道、出版 などを規制した。また11月30日の原子爆弾災害 調査特別委員会の第1回報告会の席上、総司令部 経済科学局の担当官は、日本人による原子爆弾災 害研究は総司令部の許可を要すること、またその 結果の公表を禁止する旨を通達した。学術研究会 議会長林春雄はこの措置について12月11日付け で各研究者に連絡する一方、都築正男を通じて総 司令部と均衡し、1946年2月15日から8月15日 までに期限付きで、許可申請に応じ調査研究を承 認される旨の了解をとりつけた。しかし実際には - 9 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 1(2) May, 2001 以後 1951 年のサンフランシスコ講和条約締結ま で日本の研究者による原子爆弾災害についての自 由な研究活動および研究成果の公表は著しい制約 のもとにおかれることになったのである。 VIII:アメリカ側の調査と日米合同調査 アメリカは日本進駐と同時にマンハッタン管区調 査団を日本へ送った。この調査団は正式にはマン ハッタン管区戦略部門第1技術サービス派遣団と よばれ、トーマス・ファレルを指揮官としスタッ モード・ウオレン以下医学班、工学班計30名で編 成され原子爆弾投下の結果についての予備的調査 および進駐アメリカ軍人の安全のための残留放射 能の有無の確認を任とした。2班にわかれ、第1班 は1945年9月8日フアレル以下13名が広島赴き、 第2班は9月9日の長崎に入った。広島への第1班 は 万国赤十字社のマルセル・ジュノーを同行し た。第1 班のうちフアレル以下の8 名は 9 月9 日 東京についた。一方アメリカ太平洋軍顧問軍医ア ンエレイ・オーダーソンは、原子爆弾の人体にお よぼす影響を調査する必要をみとめ、その調査計 画を立案して8月28日総司令部軍医監 ガイ・デ ニットに提出した、。この計画は総司令部の承認す るところとなり、12 名の軍医を含む25 名からな るアメリカ陸軍軍医調査班が編成された。オー ダーソン、フアレル、およびスタフオード・ウオ レンは9 月4 日東京で会合し、両調査団が協力し て医学的報告を作成する方針を決めた。また日本 の研究者が被爆医療から活発な調査をすすめてお り、実際に日本側の協力が不可欠であると考えら れた結果、都築正男との接触がはかられた。この ような経過を経て「日本における原子爆弾の影響 に関する日米合同調査団」が組織されるに至った のである。 日米合同調査団は、総司令部軍医団、マンハッ タン管区調査団および日本側研究班の3者から構 成され、オーダーソンが代表となった。アメリカ 側は団員を広島と長崎に分け、広島へは、ヴエル ネ・メーソンを主任とし、アヴエリン・リーボー、 ジャック・ローゼンバーム、ミルトン・クレー マー、カルビン・コッホを、長崎へはエルバート・ ドコーンイ、を主任とし、ジョーン・ルロイ、ヘ ルマン・ターノーバー、ジョン・アヴアムボルト らを派遣することにした。日本側との打ち合わせ 会議は9月22日東京帝国大学医学部で開かれた。 東京帝国大学から医学部長田宮猛夫のほか、佐々 貫之、吉川泰寿、三宅仁らが出席した。その結果 日本側も調査班を編成し、都築正男を中心に、広 島へ佐々貫之、中尾嘉七、梶谷環、石川浩一、宮 田利顕、篠原毅、石井善一郎、加藤周一、 徹、 久保郁哉、 茂、河村基、大越正秋、島峰徹郎、 ら、長崎へ卜部美代志、三宅仁、吉川春寿、大橋 茂、上田英雄、北本浩、袴田三郎、二階堂惣四郎、 柏戸真一らが赴くこととなった。長崎班は9月28 日、広島班は10月12日それぞれ現地に入り、広 島では9月11日以来広島に救護病院を開設してい た陸軍軍医学校、東京第一陸軍病院の特設救護班 (大橋茂一ら)が、長崎では九州帝国大学、長崎医 科大学、大村海軍病院がそれぞれ協力した。シー ルズ・ウオーレンを長とするアメリカ海軍調査班 も長崎で合同調査に加わった。 合同調査はほぼ12月までに終了した。日本側の 調査研究結果は、1946年謄字版刷りで日本側関係 者に配布されたが、アメリカ側の意向で公表され なかった。後にそれらは日本学術会議編「原子爆 弾災害調査報告集」(1953)に収録されたが、1940 年の報告に比べると削除されている部分が少なく ない。アメリカでは1946年9月にオーターソン・ シールズ・ウオレン・リーボー・ルロイ・カイラー・ ハモンド・ヘンリー・バーネットらの共同執筆の 形で「日本における原子爆弾の効果研究にのため の合同調査が報告」がまとめられた。6 章総計 1600頁に及ぶ記述で、公表されることなく、アメ リカ政府部内資料としてとどめられた。それが一 部を除き、アメリカ原子力委員会情報サービスの 形で公表されたのは、1951年のことである。また 日本では占領期間中、米軍総司令部の命令で原子 爆弾関係の研究成果の公表が厳しく制約されてい たのに反して、合同調査の一部は、ウオレン・リー ボーあるいはデユーレイなどの個人の学術論文と して1946年から1948年にかけてたびたびアメリ カの専門雑誌に掲載された。 ウオーターソンおよびウオレンの報告書による と、合同調査団は、(1)日本側記録病理解剖資料、患 者病歴を再検討、(2)生存患者および後日死亡した 者の調査、(3)入院患者の臨床調査、(4)被爆時医療 を受けなかった有傷無傷の生存者の検査、(5)被爆 条件の明かな生存者の調査、(6)調査事例や病理解 剖資料の収集、(7)人口および人的被害の数的調査 の資料の収集、(8)建物の被害と遮断条件の資料の 収集、(9)フイルム、写真等の入手などの作業をお こない、調査事例総計13.500 例、病理解剖資料 217 例、写真等 1.500 枚に達した。これらの資料 の大部分は日本の医師、研究者の自発的ないし学 術研究会議特別委員会としての組織下での調査研 究活動の成果であり、合同調査の建て前によりア - 10 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 1(2) May, 2001 メリカ側に提供されたものである。提供という形 をとってはいるが、実際には、そこに占領国とし ての強権が介入したことは否めない。このように してすべての資料はアメリカに送られ、陸軍病理 学研究所 Armed Force Institute of Pathalogy (AFIP)その他に保管された。 米国戦略爆撃調査団は、もともとドイツに対す る爆撃の効果を調査するため、1944 年11月アメ リカ陸軍によって組織されたものであるが、日本 降伏の1945年8月15日トルーマン大統領は調査 団に対し、日本におけるあらゆる影響を調査し、 その結果を陸軍省および海軍省に報告することを 命じた。調査団はタラキン・ドリバーを団長、ポー ル・ニッチェ、ヘンリー・アレキサンダーを副団 長とし文官300名、将校350名、下官兵500名計 1.150 名から成る大規模な組織で東京に本部名古 屋、大阪、広島、長崎に支部をおいた。日本各地 太平洋諸島、アジア大陸にまで移動する力を持ち、 2月から1946年初めまで広域かつ徹底的な調査を 行った。調査団の目的はアメリカ国防省戦略政策 の決定に役立つ資料を入手することにあったのだ から、調査自体が一種の軍事行動であった。調査 立案目標のひとつに都市爆撃があり、なかでも原 子爆弾投下の影響調査は、最も重要でかつ高度に 戦略的意味をもつものであった。オーターソンは 日米合同調査班の第1回会合(1945年9月22日、 東京大学医学部)の席で「戦争はすでに終わった ことである。そればかりでなく、いかなる場合で も学問は政治にわずらわさせてはならない。この 調査は全くの日米合同の事業であって、資料入手 のためには、日本側の全面的協力を期待する。し かしその結果を公表するにあたって、決して日本 人の頭脳と労作の成果を奪い去ろうとするもので はない。」と述べたと伝えられているが、この科学 の論理は戦略爆撃調査の立場から、無縁のもので あった。原子爆弾災害研究における日米関係は、 このようなアメリカの態度の二重性格によって特 徴づけられていたといえよう。 日米合同調査団および米国戦略爆撃調査団が入 手した諸資料の解析に従い、アメリカの関係者の 間には、日本における原子爆弾影響についての調 査をさらに継続してすすめる必要がみとめられる ようになり、1943年11月18日海軍長官ジェーム ス・フオンスタルはトルーマン大統領にあて、原 子爆弾傷害の後遺症を継続して調査することを建 言した。11 月26 日大統領はこの建言を採択し米 国学士院・学術会議に対し、原爆傷害調査委員会 (ABCC) の設置を指令した。米国学士院・学術会 議は ABCC の仕事の具体化について検討を始め、 1946 年12月オースチン・ブルースとポール・ヘ ンショーを主宰とする調査団を日本に派遣した。 ブルース・ヘンショー調査団は日本での調査の後、 ABCCが、癌、白血病、寿命の短縮、精力の減退、 成長発育の障害、不妊、遺伝形式の変化、視力の 変化、異常色素沈着、脱毛、疫学上の変化などの 諸事項を研究対象として、とりあげるよう勧告し た。1947年4月広島赤十字病院で、ジェームス・ ニールが被爆者の血液学的調査に着手したのが ABCCの日本における仕事の第一歩であった。ひ きつづき、スネル、シャル、コーガン、グリコー リックらにより、妊娠終結、遺伝的影響、白内障、 児童の成長障害などの調査研究がこころみられた。 それらとともに日本政府の協力とABCCの仕事の たの施設の必要が感じられるようになり、1947年 6月ABCCのシールズ・ウオーレン、カール・テ ママーおよびニールは都築正男を同道して、厚生 省予防局長浜野規矩夫、検定学長小川朝吉、日立 予防衛生研究所長小林六造を予防局に訪問し、米 国学士院、・学術会議-ABCCの原子爆弾影響の医 学的研究につき予防衛生研究所の協力を得たい旨 申し入れた。厚生省および予防衛生研究所は予算、 人員、研究計画など具体的な協力体制を検討し、 技官永井勇がその衛に当たるとともに遺伝学的研 究の顧問として木田文夫(熊本医科大学教授)を 予防衛生研究所嘱託とした。広島における施設と しては 1948 年1 月宇品町所在の旧凱旋館の使用 が決まり、ABCC事務所が開設された。1948年8 月テルマーがABCC初代所長に就任、同年 移っ て予防衛生研究所広島支所長兼 ABCC 副所長と なった。その後1950年11月には広島市比治山公 園に恒久的な研究所が竣工し、翌年宇品からの移 転を完了した。長崎へは、1948 年7 月ブリュー ワーが派遣されてABCCの作業を長崎保健所で開 始した。長崎に ABCC の施設が整えられたのは 1950 年7 月である。 以後 1975 年放射能影響研究所に移行するまで の間、グランド・テイラー、ジョン・モルトン、ロ バート・ホームズ、ジョージ・ダーリング、ルロ イ・アレンが所長を歴任した。副所長兼予防広島 支所長に槙弘、副所長けん予防長崎支所長は永井 勇であった。 ABCCと予防衛生研究所は対等の立場で共同研 究を進める建て前であったが、占領期のみでなく その後まで事実上アメリカ主導の機関であったと 言ってよい。アメリカ側に存在するABCC運営の ための設問委員会に対応する形で日本側設問委員 - 7 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 1(2) May, 2001 1945年8月6日広島に原子爆弾が投下された直 後から災害調査と研究が始められた。それは軍や 行政機関が企画し大学、研究所の科学者の協力に よって始められたもので、8 月 6 日呉鎮守府調査 団、8月8日技術員調査団、大本営調査団、陸軍省 調査班、海軍広島調査団、8月9日西部軍派遣調査 団、8月10日京都大学調査団(陸軍京都師団の要 請による)、大阪大学調査団(海軍の要請による) 8月14日に陸軍省第2次調査班がそれぞれ広島に 入った。これらの調査団には、仁科芳雄、玉木英 彦、木村一治、村地孝一。(理化学研究所)松前重 義(技術院)杉山繁輝、荒勝文策、(京都大学)浅 田常三郎、尾崎誠之助、(大阪大学)大野章造、篠 原健一(九州大学)島田暮夫、松永直、山科清、成 田久一、山岡静三郎、山田正明、桑田岩雄(陸海 軍軍医)など、物理工学、医学の専門家が加わっ ている。長崎では8月10日長崎地区憲兵隊、8月 14日呉鎮守府調査団などが初期調査を行い、8月 13日には篠原健一、8月14日仁科芳雄が視察のた め入市した。 広島での各調査団の作業は精力的に進められ、 8月10日には大本営調査団が主催して比治山南の 兵器補給廠で陸海軍合同の研究会議が開かれ、こ の会議で投下された爆弾が原子爆弾であることが 確認された。原子爆弾の確認は仁科芳雄の指導に 負うところが多く、仁科は災害状況、保存フイル ムの感光状態などから原爆であると推定し、また 8月10日資料を理化学研究所に送って放射能を測 定させた。理化学研究所からは、玉木英彦、木村 一治、村地孝一ローリンツエン検電気を携え陸軍 省第2次調査班と共に8月14日広島に着き、以後 8 月 17 日まで市内各所で放射能の測定に従事し た。 人体における被爆の影響を明らかにする上で重 要な初期の病理解剖は、山科清、(8 月 10 日-15 日、12 例)杉山繁輝(8 月 11、12 日 3 例)によ り似島検疫所でおこなわれた。この15例に岩国海 軍病院の2 例、傷痍軍人広島療養所の 3例および 針尾海兵団救護班の5例と25例が被爆2週間以内 の原爆初期病理解剖例である。 8月15日の敗戦はやがて連合軍の占領体制に移行 し、国内の諸状況に多くの変化をもたらすが、そ の影響が次第に現実のものとなる以前に8月下旬 から9月上旬にかけて、各大学、研究機関による 広島・長崎に対する調査、および救護の活動が開 始された。東京大学では都築正男が中心となり、8 月22日陸軍軍医学校長井深健次と協議の上、陸軍 軍医学校、理化学研究所の協力のもとに東京大学 調査団をまず広島に送ることに取り決めた。東大 からの参加者は、都築正男を団長に石橋幸雄(外 科)中尾 嘉久(内科)三宅仁・石井善一朗(病 理学)らで、陸軍軍医学校から御園生圭輔、山科 清、本橋均ら、理化学研究所から杉本朝雄、山崎 文男らが加わった。5月29日東京を発ち、30日に 広島に入った。三宅らは8月30日から9月8日ま でに26例の病理解剖を行い、中尾らにより血液学 的調査、石橋らにより熱傷、外傷の外科的調査が すすめられた。9 月 2 日には放射能(山崎文男)、 血液学(本橋均)、熱傷外科(石橋幸雄)、病理学 (三宅仁、山科清)などのテーマについて研究会を 開き、9 月3 日都築は記者会見して調査結果を公 表した。 京都帝国大学に対しては8月27日中部軍管区司 令部が、井衛護 を派遣して調査を要請し京都 大学はこれに応えて、8 月末までに研究班を組織 した。班員は舟岡省吾(解剖学)、杉山繁輝(病理 学)菊地武彦、真下俊一(内科学)、ら40名にの ぼり、2班に分かれて9月3日から4日にかけて広 島に入った。東京大学調査団が宇品を基地とした のに対して、京都大学研究班は大野陸軍病院を基 地とし、牛田国民学校にも診療班をおいた。杉山 らは9 月5日から17日までに22 例の病理解剖を 行い、これに杉山の初期解剖3例を加えた25例は 大野重安により精査記録された。京都大学研究班 の不幸は、9月17日枕崎台風による大津波のため 大野陸軍病院が倒壊し真下 、杉山繁輝、大久 保忠雄、島本光顕、西山真正、堀 太郎、島谷き よ、村尾誠、原祝之、 苑谷 一、平田耕造 の殉職者をだしたことである。このため全学をあ げて計画された京都大学の大規模な総合的現地調 査は挫折に至った。 広島県立医学専門学校は戦争末期に閉校し被爆 直前広島県高田郡甲立町に疎開した。市内の本校 舎は被災し、研究活動は停止したが、玉川忠夫(病 理学)は広島通信病院(院長蜂谷通彦)の協力を 得て、8月29日から10月中旬にかけ19例の病理 解剖を行った。9月11日岡山大学救護隊(隊長林 道倫)が広島に入り、被爆者の救護にあたるとと もに玉川の病理学的調査をも援助した。 東京帝国大学伝染病研究所へは広島県衛生課から 調査要請があった。急性被爆症状のひとつに下痢、 血便があり、赤痢などの腸管伝染病が疑われたの である。伝染病研究所は草野信男ら5名を広島に 送った。草野らは、8月29日広島に着き、まず宮 島で病理解剖をおこない、ついで西条の傷痍軍人 広島療養所に赴いた。広島療養所は、被爆直後か - 8 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 1(2) May, 2001 ら救護活動に従事し、また8月16 日から白井勇、 沢崎博次、小笠原良雄らが病理解剖をおこなって いた。さらに草野の指導を得て、11月までに21例 の病理解剖を記録している。 長崎へは8月下旬から 9月上旬の間に九州帝国 大学、熊本医科大学、山口県立医学専門学校など の調査、救護班が入った。 九州帝国大学は福岡県の要請を受けて、8月11 日竜田信義ら28 名からなる第一次救護班を長崎 に送り、この救護班は8月12日から16日まで、新 興善および山里国民学校救護所で治療にあたった。 これと交替で約30名の第二次救護班らが送られ、 8月30日沢田藤一郎(内科)らが長崎に入り、以 後9月上旬から下旬にかけて中島良貞、石川敏夫 (放射線治療学)、小野興作、今井環(病理学)な どの主として新興善を基地として調査をすすめた。 小野興作らは、この関西部軍管区216兵 病院 となっていた長崎経済専門学校および新興善救護 所で14 例の病理解剖を記録している。 熊本医科大学原子爆弾災害調査班は、放射線医 学(亀田魁輔ら)病理学(鈴江懐ら)主として編 成され、9月3日から8日まで長崎に入った。鈴江 らが9 月5日から 7日までにおこなった病理解剖 は18例である。また、山口県立医学専門学校に、 富田雅次校長以下家森武夫、小沢政治、門田可宋 ら教授6名、助教授1名、学生18名より成る研究、 治療班を組織し、9月12日長崎に着き、20日まで に調査と救護に従事した。家森らは9月14日から 20 日までの間、新興善救護所で14 例の病理解剖 を記録した。新興善救護所は10月6日長崎医科大 学に移管された。 VII:原爆災害調査と研究 - 学術会議特別委員会 一方中央では、理化学研究所、文部省科学教育 局および学術研究会議の間で、9月14日学術研究 会議、「原子爆弾災害調査研究特別委員会」を設け ることを決定した。文部大臣(前田多門)による 正式任命は10月24日であった。この特別委員会 は、物理化学地学分科会(科会長西川正治、委員 仁科芳雄、菊池正士、嵯峨根遼吉、木村健三郎、小 島三一郎、篠田栄、渡辺武男)生物学科会(科会 長真島正市、委員野田尚一、三島徳七)土木建築 学科会(科会長田中豊、委員武藤清、広瀬孝太郎) 電力通信学科会(科会長瀬藤象二、委員大橋幹一) 医学科会(科会長都築正男、委員中泉正徳、菊池 武彦、大野章三、井深健次、福井信立、石黒浅雄、 横倉誠次郎、金井泉、勝俣稔、古屋芳雄)農学水 畜産学科会(科会長雨宮育作、委員浅見与七、川 村一水)林学科会(科会長三浦伊八郎、委員中村 賢太郎)獣医学科会(科会長増井清、委員佐々木 清網)の9分科会から構成され、委員長に林春雄、 副委員長に山崎直輔、田中芳雄が就任した。医学 科会にはその後さらに田宮猛雄、佐々貫之、三宅 仁、木村康、舟岡省吾、森茂樹、高木耕三、木下 良順、布施信義、福島憲四、神中正一、中島義良 貞、小野興作、沢田藤一郎、林道倫、古尾野公平、 平井正民、らが委員として加わった。 特別委員会の発足と並行して、日本映画社は原子 爆弾災害記録映画の制作を企画し、記録映画班 (プロデユーサー加納竜一、演出奥山大六郎、相原 秀次、伊東寿恵男)を組織した。記録映画部は特 別委員会の補助機関として科学者と協力して映画 製作にあたった。 特別委員会の組織により、各大学研究機関、病 院などの仕事は連絡集成され、研究費の配分もお こなわれて、以後1947年まで調査研究がすすめら れた。その調査、研究の重要な成果は後に日本学 術会議が「原子爆弾災害調査報告刊行委員会(委 員長亀山直人)を設けて整理編集につとめ、1951 年8月「原子爆弾災害調査報告書総括編」1953年 5月「原子爆弾災害調査報告集」第1分冊および第 2分冊として日本学術振興会から出版された。「原 子爆弾災害調査報告書」は両分冊あわせて 1.642 頁、所収の報告は理化学38編、生物学6編、医学 130 編にのぼる。 この研究体制が中断することなく活動を続け、 ひきつづいて組織的な調査、研究を展開したなら ば、原子爆弾調査の研究の歴史は全く異なった経 過をたどったに違いない。しかし現実には1947年 までの3年間、実質的には1945年後半を中心に1 年半あまりの活動を以てその仕事は中断し、その ままの形での継続発展はなかった。それは敗戦に ともなう教育、学術研究体制の刷新変革に影響を 与えたためでもあるが、最も深刻に作用したのは 占領体制である。1945 年9 月19日、連合国総司 令部はプレス・エードを指令し言論、報道、出版 などを規制した。また11月30日の原子爆弾災害 調査特別委員会の第1回報告会の席上、総司令部 経済科学局の担当官は、日本人による原子爆弾災 害研究は総司令部の許可を要すること、またその 結果の公表を禁止する旨を通達した。学術研究会 議会長林春雄はこの措置について12月11日付け で各研究者に連絡する一方、都築正男を通じて総 司令部と均衡し、1946年2月15日から8月15日 までに期限付きで、許可申請に応じ調査研究を承 認される旨の了解をとりつけた。しかし実際には - 9 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 1(2) May, 2001 以後 1951 年のサンフランシスコ講和条約締結ま で日本の研究者による原子爆弾災害についての自 由な研究活動および研究成果の公表は著しい制約 のもとにおかれることになったのである。 VIII:アメリカ側の調査と日米合同調査 アメリカは日本進駐と同時にマンハッタン管区調 査団を日本へ送った。この調査団は正式にはマン ハッタン管区戦略部門第1技術サービス派遣団と よばれ、トーマス・ファレルを指揮官としスタッ モード・ウオレン以下医学班、工学班計30名で編 成され原子爆弾投下の結果についての予備的調査 および進駐アメリカ軍人の安全のための残留放射 能の有無の確認を任とした。2班にわかれ、第1班 は1945年9月8日フアレル以下13名が広島赴き、 第2班は9月9日の長崎に入った。広島への第1班 は 万国赤十字社のマルセル・ジュノーを同行し た。第1 班のうちフアレル以下の8 名は 9 月9 日 東京についた。一方アメリカ太平洋軍顧問軍医ア ンエレイ・オーダーソンは、原子爆弾の人体にお よぼす影響を調査する必要をみとめ、その調査計 画を立案して8月28日総司令部軍医監 ガイ・デ ニットに提出した、。この計画は総司令部の承認す るところとなり、12 名の軍医を含む25 名からな るアメリカ陸軍軍医調査班が編成された。オー ダーソン、フアレル、およびスタフオード・ウオ レンは9 月4 日東京で会合し、両調査団が協力し て医学的報告を作成する方針を決めた。また日本 の研究者が被爆医療から活発な調査をすすめてお り、実際に日本側の協力が不可欠であると考えら れた結果、都築正男との接触がはかられた。この ような経過を経て「日本における原子爆弾の影響 に関する日米合同調査団」が組織されるに至った のである。 日米合同調査団は、総司令部軍医団、マンハッ タン管区調査団および日本側研究班の3者から構 成され、オーダーソンが代表となった。アメリカ 側は団員を広島と長崎に分け、広島へは、ヴエル ネ・メーソンを主任とし、アヴエリン・リーボー、 ジャック・ローゼンバーム、ミルトン・クレー マー、カルビン・コッホを、長崎へはエルバート・ ドコーンイ、を主任とし、ジョーン・ルロイ、ヘ ルマン・ターノーバー、ジョン・アヴアムボルト らを派遣することにした。日本側との打ち合わせ 会議は9月22日東京帝国大学医学部で開かれた。 東京帝国大学から医学部長田宮猛夫のほか、佐々 貫之、吉川泰寿、三宅仁らが出席した。その結果 日本側も調査班を編成し、都築正男を中心に、広 島へ佐々貫之、中尾嘉七、梶谷環、石川浩一、宮 田利顕、篠原毅、石井善一郎、加藤周一、 徹、 久保郁哉、 茂、河村基、大越正秋、島峰徹郎、 ら、長崎へ卜部美代志、三宅仁、吉川春寿、大橋 茂、上田英雄、北本浩、袴田三郎、二階堂惣四郎、 柏戸真一らが赴くこととなった。長崎班は9月28 日、広島班は10月12日それぞれ現地に入り、広 島では9月11日以来広島に救護病院を開設してい た陸軍軍医学校、東京第一陸軍病院の特設救護班 (大橋茂一ら)が、長崎では九州帝国大学、長崎医 科大学、大村海軍病院がそれぞれ協力した。シー ルズ・ウオーレンを長とするアメリカ海軍調査班 も長崎で合同調査に加わった。 合同調査はほぼ12月までに終了した。日本側の 調査研究結果は、1946年謄字版刷りで日本側関係 者に配布されたが、アメリカ側の意向で公表され なかった。後にそれらは日本学術会議編「原子爆 弾災害調査報告集」(1953)に収録されたが、1940 年の報告に比べると削除されている部分が少なく ない。アメリカでは1946年9月にオーターソン・ シールズ・ウオレン・リーボー・ルロイ・カイラー・ ハモンド・ヘンリー・バーネットらの共同執筆の 形で「日本における原子爆弾の効果研究にのため の合同調査が報告」がまとめられた。6 章総計 1600頁に及ぶ記述で、公表されることなく、アメ リカ政府部内資料としてとどめられた。それが一 部を除き、アメリカ原子力委員会情報サービスの 形で公表されたのは、1951年のことである。また 日本では占領期間中、米軍総司令部の命令で原子 爆弾関係の研究成果の公表が厳しく制約されてい たのに反して、合同調査の一部は、ウオレン・リー ボーあるいはデユーレイなどの個人の学術論文と して1946年から1948年にかけてたびたびアメリ カの専門雑誌に掲載された。 ウオーターソンおよびウオレンの報告書による と、合同調査団は、(1)日本側記録病理解剖資料、患 者病歴を再検討、(2)生存患者および後日死亡した 者の調査、(3)入院患者の臨床調査、(4)被爆時医療 を受けなかった有傷無傷の生存者の検査、(5)被爆 条件の明かな生存者の調査、(6)調査事例や病理解 剖資料の収集、(7)人口および人的被害の数的調査 の資料の収集、(8)建物の被害と遮断条件の資料の 収集、(9)フイルム、写真等の入手などの作業をお こない、調査事例総計13.500 例、病理解剖資料 217 例、写真等 1.500 枚に達した。これらの資料 の大部分は日本の医師、研究者の自発的ないし学 術研究会議特別委員会としての組織下での調査研 究活動の成果であり、合同調査の建て前によりア - 10 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 1(2) May, 2001 メリカ側に提供されたものである。提供という形 をとってはいるが、実際には、そこに占領国とし ての強権が介入したことは否めない。このように してすべての資料はアメリカに送られ、陸軍病理 学研究所 Armed Force Institute of Pathalogy (AFIP)その他に保管された。 米国戦略爆撃調査団は、もともとドイツに対す る爆撃の効果を調査するため、1944 年11月アメ リカ陸軍によって組織されたものであるが、日本 降伏の1945年8月15日トルーマン大統領は調査 団に対し、日本におけるあらゆる影響を調査し、 その結果を陸軍省および海軍省に報告することを 命じた。調査団はタラキン・ドリバーを団長、ポー ル・ニッチェ、ヘンリー・アレキサンダーを副団 長とし文官300名、将校350名、下官兵500名計 1.150 名から成る大規模な組織で東京に本部名古 屋、大阪、広島、長崎に支部をおいた。日本各地 太平洋諸島、アジア大陸にまで移動する力を持ち、 2月から1946年初めまで広域かつ徹底的な調査を 行った。調査団の目的はアメリカ国防省戦略政策 の決定に役立つ資料を入手することにあったのだ から、調査自体が一種の軍事行動であった。調査 立案目標のひとつに都市爆撃があり、なかでも原 子爆弾投下の影響調査は、最も重要でかつ高度に 戦略的意味をもつものであった。オーターソンは 日米合同調査班の第1回会合(1945年9月22日、 東京大学医学部)の席で「戦争はすでに終わった ことである。そればかりでなく、いかなる場合で も学問は政治にわずらわさせてはならない。この 調査は全くの日米合同の事業であって、資料入手 のためには、日本側の全面的協力を期待する。し かしその結果を公表するにあたって、決して日本 人の頭脳と労作の成果を奪い去ろうとするもので はない。」と述べたと伝えられているが、この科学 の論理は戦略爆撃調査の立場から、無縁のもので あった。原子爆弾災害研究における日米関係は、 このようなアメリカの態度の二重性格によって特 徴づけられていたといえよう。 日米合同調査団および米国戦略爆撃調査団が入 手した諸資料の解析に従い、アメリカの関係者の 間には、日本における原子爆弾影響についての調 査をさらに継続してすすめる必要がみとめられる ようになり、1943年11月18日海軍長官ジェーム ス・フオンスタルはトルーマン大統領にあて、原 子爆弾傷害の後遺症を継続して調査することを建 言した。11 月26 日大統領はこの建言を採択し米 国学士院・学術会議に対し、原爆傷害調査委員会 (ABCC) の設置を指令した。米国学士院・学術会 議は ABCC の仕事の具体化について検討を始め、 1946 年12月オースチン・ブルースとポール・ヘ ンショーを主宰とする調査団を日本に派遣した。 ブルース・ヘンショー調査団は日本での調査の後、 ABCCが、癌、白血病、寿命の短縮、精力の減退、 成長発育の障害、不妊、遺伝形式の変化、視力の 変化、異常色素沈着、脱毛、疫学上の変化などの 諸事項を研究対象として、とりあげるよう勧告し た。1947年4月広島赤十字病院で、ジェームス・ ニールが被爆者の血液学的調査に着手したのが ABCCの日本における仕事の第一歩であった。ひ きつづき、スネル、シャル、コーガン、グリコー リックらにより、妊娠終結、遺伝的影響、白内障、 児童の成長障害などの調査研究がこころみられた。 それらとともに日本政府の協力とABCCの仕事の たの施設の必要が感じられるようになり、1947年 6月ABCCのシールズ・ウオーレン、カール・テ ママーおよびニールは都築正男を同道して、厚生 省予防局長浜野規矩夫、検定学長小川朝吉、日立 予防衛生研究所長小林六造を予防局に訪問し、米 国学士院、・学術会議-ABCCの原子爆弾影響の医 学的研究につき予防衛生研究所の協力を得たい旨 申し入れた。厚生省および予防衛生研究所は予算、 人員、研究計画など具体的な協力体制を検討し、 技官永井勇がその衛に当たるとともに遺伝学的研 究の顧問として木田文夫(熊本医科大学教授)を 予防衛生研究所嘱託とした。広島における施設と しては 1948 年1 月宇品町所在の旧凱旋館の使用 が決まり、ABCC事務所が開設された。1948年8 月テルマーがABCC初代所長に就任、同年 移っ て予防衛生研究所広島支所長兼 ABCC 副所長と なった。その後1950年11月には広島市比治山公 園に恒久的な研究所が竣工し、翌年宇品からの移 転を完了した。長崎へは、1948 年7 月ブリュー ワーが派遣されてABCCの作業を長崎保健所で開 始した。長崎に ABCC の施設が整えられたのは 1950 年7 月である。 以後 1975 年放射能影響研究所に移行するまで の間、グランド・テイラー、ジョン・モルトン、ロ バート・ホームズ、ジョージ・ダーリング、ルロ イ・アレンが所長を歴任した。副所長兼予防広島 支所長に槙弘、副所長けん予防長崎支所長は永井 勇であった。 ABCCと予防衛生研究所は対等の立場で共同研 究を進める建て前であったが、占領期のみでなく その後まで事実上アメリカ主導の機関であったと 言ってよい。アメリカ側に存在するABCC運営の ための設問委員会に対応する形で日本側設問委員 - 11 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 1(2) May, 2001 会がおかれるようになったのは 1955 年以後であ る。日本側設問委員会は日本学術会議会長 広島、長崎両大学長、同医学部長、広島大学原爆 放射能医学研究所長、放射能医学総合研究所長、 広島長崎医師会長、厚生省公衆衛生局長、文部省 大学学術局員、などをメンバーとする会議で予防 衛生研究所長が議長をつとめた。1955 年以来 ABCC 閉鎖までに 14 回開催されている。また ABCC自体ならびにその各部門に多くの日本人顧 問が置かれていた。しかし、臨床部、臨床検査部、 放射線部、病理部、統計部、医科社会学部などの 部長をつとめたのは、ほとんど全てアメリカ人で あり、日本側設問委員会も日本人顧問も実質的発 言権に乏しかった。財政的にも日本側が負担した のは、予防衛生研究所支部職員(約30名)の人件 費が主なものであり、主要経費はアメリカ側の負 担であった。1972-73年までの職員総数は639名 (うち日本人611名、アメリカ人28名)専門職員 (医師、研究者)は62 名であった。ニールらの初 期の調査の後、調査対象の抽出に問題があること、 また被爆者の実態を正確に反映する固定をし、そ れを基礎に系統的なスクリーニング調査のプログ ラムを組むことの必要性がみとめられるようにな り1949年ABCCは被爆人口調査を行った。また、 1950年の国勢調査に際して、全国規模の被爆者調 査を行った。これらの資料により、ABCCの定期 的外来検診の対象となる小児および成人のコー ホートが選定された。このことはABCCの被爆者 調査の前進であったが、現実には調査対象者の確 保に困難があり、また成人検診の結果には、陰性 成績が多く、サンプル抽出の妥当性に疑問がもた れるようになった。加えて閉鎖的な占領機関的性 格、アメリカ側専門職員の頻繁な交代、広島、長 崎の市民感情なども影響した。1955 年頃には ABCC の調査活動は、全体として停滞気味とな り、ABCC の将来に不安が持たれるようになっ た。そのため、米国学士院はABCCの業績の点検 とその活動の活溌化を策して、ケイト・キャノン を長とする調査団を送った。この調査団の小委員 会であったフランシス委員会はトーマス・フラン シスを委員長、セイモア・ジャブロン、フエリッ クス・ムーアを委員とし事態を詳細、検討の上 ABCCのための総合的計画を樹立し、それを勧告 した。フランシス委員会の報告は、対策としてプ ロジェクト的調査の導入とそのサンプル抽出とな る基本サンプルの設定を従案、勧告した。すなわ ち、固定人口集団を確定し、それに基づいて疫学 的探索、継続的罹病調査、臨床的探索、病理学的 探索、死亡診断書調査と統計的にすすめることを 求め、主にオークリッジ国立研究所と協同して被 爆線量の推定をすすめることとしたのである。 その結果、1957 年エール大学人類生態学教授 ジョージ・ダーリングが新しい所長に選ばれ、 1958 年2 万人を対象とする成人健康調査、1959 年10万人を対象とする寿命調査、1961年病理解 剖調査をそれぞれ再発足した。また、その時期ま での占領機関的閉鎖性、戦略的秘密主義の傾向も 漸次解消されるに至った。 VIIIサンフランシスコ条約以降 占領期間中の日本の原子爆弾災害の研究およびそ の結果の公表は著しい制約を受けた。学術県会で の原子爆弾災害についての発表は1947年第12回 日本医学会総会での総会講演(菊池武彦、木本誠 二、中泉正徳、木下良順ら)を最後に1951年まで 中断し、また学会での原子爆弾関係の個別的報告 は認められても、その印刷公布は原則として禁止 された。1960 年ABCC が編集した「原子爆弾に よる障害研究文献集」を見ると1945年から1951 年までの文献387編のうち日本の研究者の発表は 96編でそれも短報や抄録が大部分である。96編の うち1946 年は30 編、1947 年は17 編で1948 年 はわずか4編、1949年には6編を見出すにすぎな い。また医学的調査研究の中心的人物であった都 築正男は1949年3月24日の総司令部覚書により、 6ヶ月の猶予期限付で公職追放除外を取り消され、 以後講和条約発効まで活動の自由を失った。 このような状況は、1951年サンフランシスコ条 約締結の年に入ると緩和され、翌年条約の発行と ともに終了した。1951年12月9日にはABCCと 広島医学会が協力して「原爆影響研究発表会」を 広島県医師会館でひらき、ABCC の事業の概要、 調査研究の結果などがはじめて日本の医師、研究 者に報告された。翌1952年1月には、日本学術会 議の協力により、ABCC の報告会が東京で開か れ、ABCC・予防衛生研究所の関係者と日本学術 会議関係者の懇談が行われた。日本の学会が再び、 自由かつ自主的に原子爆弾傷害の研究をとりあげ るようになったのは、1952年2月の第4回広島医 学会総会がはじめてである。この学会ではとくに 講和条約批准を記念して「原子爆弾症に関する会 員の研究発表会」がもたれ15 題の報告が行われ た。ついで同年4月には日本血液学会は大阪にお ける総会で「放射線殊に原爆傷害に関するシンポ ジウム」を開いた。急性不良性障害(臨床:桝屋 富一、血液像:脇坂行一、骨髄像:中尾嘉七、病 - 12 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 1(2) May, 2001 理:三宅仁、 慢性障害、病理: 漸)被爆者白血病(山脇卓 )などの報告があり、後に日本血液学会編「血 液学討議会報告集第 5 編」(1953)に記録が収め られた。 占領体制終結の動きにともない、都築正男や日 本学術会議第7部を中心に原子爆弾災害の総合的 研究体制再建の議がおこった。この企ては急速に 具体化し。1953年文部省下科学研究交付金の配当 を得て、総合研究班「原爆災害調査研究班」が組 織された。代表者には日本学術会議第7部長塩田 広重が推され、班員は広島、長崎の研究者をふく め29名であった。第1回の研究報告会は1952年 9月28日阿賀町の広島県立医科大学(現広島大学 医学部)で開かれた。この総合研究班は1957年度 まで2期6年間継続し、1958年度からビキニの水 爆による障害をも研究対象に加え、メンバーも変 動して「原水爆被害に関する総括的研究班」とし て、再組織の上、1960年まで活動を続けた。また 1959年渡辺漸を代表者とする「白血症の発生と治 療に関する基礎的研究班」が文部省科学研究交付 金によって組織され、この研究班は名称、組織を 若干づつ変更しながら 1967 年まで継続した。 1953年11月12日、政府は国立予防衛生研究所 に「原爆症調査研究協議会」を設置した。国立予 防衛生研究所長小林六道を委員長とし、小島三郎、 古野英雄(広島県衛生部長)、松坂泰正(広島県医 師会長)河石九二夫、渡辺漸、一瀬忠行、(長崎県 衛生部長)調来助、松岡茂、中泉正徳、三宅仁、都 築正男、菊池武彦が委員に、槙弘、永井勇らが幹 事に指名された。この協議会は広島、長崎の被爆 生存者の調査および原子爆弾症治療指針の起草、 作成(内科・菊池武彦、操胆道、浦城二郎、外科・ 都築正男、調来助、河石九二夫、)を任とし、1954 年2月には原子爆弾症治療指針についてのシンポ ジウムを主催した。これより先1953年1月広島に 5月には長崎に「原爆障害者治療対策協議会」(原 対協)がそれぞれ成立している。原子爆弾障害の 研究、治療対策を推進するための医師会、大学、病 院、民間団体および地方自治体の協力組織で、の ちに財団法人は改組拡充し、被爆者健康管理の中 心となった。原爆症調査研究協議会の仕事は現地 では原対協によって支えられ、また1959年には広 島、長崎の原対協を基盤として「原子爆弾後障害 研究会」が組織された。広島、長崎の医師、研究 者を中心に全国から原子爆弾後障害に関心を持っ た者が集まる学術研究会で、以後毎年広島、長崎 交互に研究集会を催して今日に至っている。1965 年第 7 回原子爆弾後障害研究会は広島で開かれ、 被爆20年を記念して「原爆後障害20年のまとめ」 が総括された。 X放影研・広爆放射能直営研究所等及びABCC廃 止 日本学術会議は1954年10月「放射線基礎医学 研究所」設置の提案を可決し、この学術会議の要 望は種々の曲折ののち、1952年7月科学技術庁所 管の「放射線医学総会研究所」として実現した。放 射線医学総合研究所に対し、ABCCから被爆線量 推定について協力要請があったのに対して1962 年放医研は竹内に研究グループを発足させ、8 月 橋詰雅を第1クリッジ国立研究所に送って、実験 計画の打ち合わせ、ガンマ線については、残存ビ ルの煉瓦やタイルを用いた熱蛍光法により、また 中性子線につてはビルなどのコンクリート中鉄筋 のコバルトの放射線量測定により、実験をすすめ た。 広島大学は1954年以来「放射能医学生物学研究 所」を構想していたが、1958年医学部は「原子放 射能基礎医学研究施設」の一部門(原子放射線医 学理論部門・教授吉永春馬)が設置され翌年「原 子放射能傷害医学部門」(教授朝長正充)が増設さ れた。他方広島市原爆障害者治療対象協議会は 1954年6月原子爆弾障害究明のための総合的研究 機関の設立を厚生大臣に陳情し広島市および広島 市議会もこれに賛同し、政府に対して要求を継続 していたが、1960年末において「原子放射能医学 研究施設」を基礎に大学附属研究所として「原爆 放射能医学研究所」を新設する方針を政府、与党 に採択せしめることに成功した。広島大学放射能 医学研究所が渡辺漸を所長とし、障害基礎(教授 吉長春馬のち竹下健児)臨床第一(教授朝長正充、 のち内野治人、藤本淳)、病理学および癌(教授渡 辺漸、のちに横路謙次郎)疫学および社会医学(教 授志水清、のちに渡辺孟、栗原登)の4部門をもっ て発足したのは1961年4月である。その後1962 年には血液学(教授、大北威)、遺伝学および優生 学(教授、岡本直正)、化学療法および生化学(教 授、栄谷篤弘、のちに大沢省三)、臨床第二(教授、 江崎治夫のちに服部孝雄)、1969年には生物統計 学(教授、渡辺嶺男のち務中昌巳)、1970 年には 放射線誘発癌研究(教授広瀬文男のち伊原明弘) の各部門が増設され、また「原爆災害学術資料セ ンター」が附設された。 1962 年長崎大学医学部に「原爆後障害研究施 設」が設置された。当初、異常代謝部門(教授、小 池正彦)がおかれ、以後年度を追って、放射線生 - 13 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medicine 1(2) May, 2001 物物理(教授、岡島俊三)病態生物学(教授、西 森一正)、後障害治療(教授、朝長正充のち市丸道 人)先天異常(教授、塩見敏男)、発症予防(教授、 山下一郎)の各部門が増設されさらに「原爆災害 資料センター」が附設された。広島、長崎両大学 の研究所および施設はそれぞれ研究部門を持ち、 これより先開設された広島原爆病院(1950年9月 20 日開設)、長崎原爆病院(1958 年5 月28 日開 設)とともに被爆者医療の専門病院としての機能 を果たすこととなった。 ABCCは占領期間中の開設であり、高話条約締 結とともにその位置づけは当然再検討を要するも のであった。またABCCの国立予防衛生研究所の 協力関係も本来必ずしも明確でなく、文書による 取り決めもなかった。1951年頃から、日米両国政 府間でこの問題は再三協議の対象となったが、結 局なんらの決定的な取り決めに達することなく 1952年4月28日サンフランシスコ条約の発効を むかえた。同年10月22日アメリカ大統領はABCC およびそのアメリカ国籍を有する外職員に日本政 府が関税租税物質通貨等につき特別の取り扱いを 与え、その科学的調査の遂行を容易ならしめるよ う日米両国政府間が了解を確認することを文書を もって、外務省に要請し、これに対し外務省は同 年10月23日付口上書をもって、この了解を確認 する旨回答した。さらに、同年10月28日付けで 外務事務次官より構成事務次官あてABCCを在日 アメリカ大使館の付属機関と認め、その職員とと もにアメリカ大使館および職員と同様の特権的取 り扱いを受けるべきものである旨通知した。すな わち口上書をもって、ABCCの存在を既成の事実 として確認し了解するにとどまったのである。 しかしABCCをかこむ諸状況の変化を背景に、よ り直積的にはアメリカの財政事情の悪化を反映し て、1960年代にはいると、ABCCの改組問題が関 係者の間でとりあげられるようになった。問題が 日米両国政府間の協議に移されたのは1969 年で あり、以後折衡がくりかえされて、1974 年6 月 ABCCおよび予防衛生研究所支所を廃止し「この 調査研究を引き継ぐものとして、日米平等の参加 のもとに、管理運営される新しい研究機関として、 日本国の法律に基ずく財団法人が日本国に設立さ れることが望ましい。」とのことで、両国政府間の 意見の一致をみるに至った。両国間協議にあたっ たのは、日本は外務省と厚生省の代表、アメリカ 側は原子力委員会、米国学士院および在日アメリ カ大使館の代表であり、合意成立後は所定の手続 きを経て、1974年12月27日外務省において宮沢 喜一外務大臣、ホッドソン駐日アメリカ大使の間 で「財団法人放射線影響研究所の設立に関する日 本政府とアメリカ合衆国政府の間の書簡」が交換 された。 1975年4月発足した「放射線影響研究所」の管 理機関は理事会で、理事10名、監事2名とし理事 長1、事務理事2名を選出する。その配分は日米同 数交替制を原則とすることとなっている。初代理 事長は山下久雄、1978年に玉木正男と交替、副理 事長にロイ・アレン、常務理事には高部益男とス チュアート・フインチが就任した。研究所の経費 は日米両国が均等に負担することになっており、 1978 年度総額約 23 億円であった。 文献 1. 飯島宗一「広島、長崎でなにが起こったのか」 岩波ブックレット No8 岩波書店、 1982 2. 広島市、長崎市原爆災害誌編集委員会(飯島宗 一、今掘誠二、具島兼三郎、)「広島、長崎の原 爆災害」、岩波書店、1979 3. 飯島宗一、相原秀次「原爆をみつめるー1945 年広島、長崎」岩波書房、1981 4. C、Gウイーラマントリ、原善四郎、桜木澄和 訳「核兵器と科学者の責任」中央大学出版部、 1987 5. 中日新聞社編「ヒロシマ25 年、広島の記録 3、 1971、未来社 #
by maiu08
| 2022-06-24 04:18
ウクライナ戦争の責任はアメリカにある!――アメリカとフランスの研究者がアメリカの国際政治学者で元軍人のジョン・ミアシャイマー氏とフランスの歴史学者エマニュエル・トッド氏が「ウクライナ戦争の責任はアメリカにある」と発表。筆者の「バイデンが起こさせた戦争だ」という見解と一致する。認識を共有する研究者が現れたのは、実にありがたい。 ◆『文藝春秋』5月号がエマニュエル・トッド氏を単独取材月刊誌『文藝春秋』5月号が、エマニュエル・トッド氏を単独取材している。見出しが「日本核武装のすすめ」なので、見落としてしまうが、実はトッド氏は「ウクライナ戦争の責任はアメリカにある!」と主張している。 冒頭で、彼は以下のように述べている。 ――まず申し上げたいのは、ロシアの侵攻が始まって以来、自分の見解を公けにするのは、これが初めてだということです。自国フランスでは、取材をすべて断りました。メディアが冷静な議論を許さない状況にあるからです。 (『文藝春秋』p.95より引用) この冒頭の文章を読んで、深い感動を覚えた。 その通りだ。 いま世の中は、「知性」でものごとを考えることを許さず、「感情」で発信することしか認められない。まるで戦時中、大本営発表に逆らう者は非国民と言わんばかりだ。 しかし、このようなことをメディアが続けていると、本当に大本営が招いた結果と同じものを日本にもたらす。真に日本国民の為を思い、日本国を憂うならば、勇気を出して、戦争が起きた背景にある真相を直視しなければならない。 そうしないと、次にやられるのは日本になるからだ。 トッド氏の主張の概要は以下のようになる。 ●感情に流される中、勇敢にも真実を語った者がいる。それが元米空軍軍人で、現在シカゴ大学の教授をしている国際政治学者ジョン・ミアシャイマーだ。彼は「いま起きている戦争の責任はアメリカとNATOにある」と主張している。 ●この戦争は「ロシアとウクライナの戦争」ではなく、「ロシアとアメリカ&NATOの戦争」だ。アメリカは自国民の死者を出さないために、ウクライナ人を「人間の盾」にしている。 ●プーチンは何度もNATOと話し合いを持とうとしたが、NATOが相手にしなかった。プーチンがこれ以上、領土拡大を目論んでいるとは思えない。ロシアはすでに広大な自国の領土を抱えており、その保全だけで手一杯だ。 ●バイデン政権のヌーランド国務次官を「断固たるロシア嫌いのネオコン」として特記している(拙著『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』の第五章、p.159~p.160にかけて、オバマ政権時代、バイデン元副大統領とヌーランドがどのようにして背後で動いていたかを詳述した)。 ●アフガニスタン、イラク、シリア、ウクライナと、米国は常に戦争や軍事介入を繰り返してきた。戦争はもはや米国の文化やビジネスの一部になっている(拙著『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』の「おわりに」――戦争で得をするのは誰か?に書いた内容と完全に一致する)。 何というありがたいことだろう。 日本で筆者1人が主張しても、ただバッシングの対象となるだけで、非常に数少ない知性人しか理解してくれない。 しかし、こうしてフランスの学者が声を上げてくれると、日本はようやく真実に目覚め始める。月刊誌『文藝春秋』の勇気を讃えたい。 ◆米国際政治学者・ミアシャイマー「ウクライナ戦争を起こした責任はアメリカにある!」世界には感情を抑えて、知性で真実を訴えていく研究者は、ほかにもいる。トッド氏が事例として挙げているアメリカの元空軍軍人で、今はシカゴ大学の教授として国際政治を研究しているジョン・ミアシャイマー氏が、その一人だ。 彼は3月3日に「ウクライナ戦争を起こした責任はアメリカとNATOにある」とユーチューブで話している。 非常にありがたいことに、マキシムという人が日本語の字幕スーパーを付けてくれているので、日本人は容易にミアシャイマー氏の主張を聞くことができる。 ミアシャイマー氏が言っている内容で筆者が特に興味を持った部分を以下に適宜列挙してみる。 ●特に昨年(2021年)の夏、ウクライナ軍がドンバス地域のロシア軍に対して無人偵察機を使用したとき、ロシア人を恐怖させました(ユーチューブの経過時間7:40前後)。(これに関しては拙著『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』のp.177~p.178で詳述した)。 ●太平洋戦争の末期1945年初頭に、アメリカが日本本土に侵攻する可能性に直面したとき、何が起こったか、ご存じですか(ユーチューブ経過時間17:29)?硫黄島で起こったこと、そして沖縄で起こったことの後、アメリカが日本本土に侵攻するという作戦は、アメリカ国民をある種の恐怖に陥れました(17:42)。終戦間近の1945年3月10日から、アメリカは日本各地の大都市の無辜の市民に、次々に無差別空襲爆撃を行いました(17:51)。その後、東京に最初に特殊爆弾(焼夷弾)を投下した一夜だけで、なんと、広島(9万人)や長崎(6万人)の犠牲者よりももっと多くの一般市民(10万人)を焼き殺したのです(17:54)。実に計画的かつ意図的に、アメリカは日本の大都市を空襲で焼き払ったのです(18:00)。なぜか?大国日本が脅威を感じているときに、日本の主要な島々に、直接軍事侵攻したくなかったからです(18:04)。 ●アメリカはウクライナがどうなろうと、それほど気にかけていません(20:34)。アメリカ(バイデン)は、ウクライナのために戦い、兵士を死なせるつもりはないと明言しています(20:39)。アメリカにとっては、今回の戦争が、自国存亡の危機を脅かすものではないので、今回の結果はたいして重要ではないのです(20:43)。しかし、ロシアにとって今回の事態は自国ロシアの存亡の危機であると思っていることは明らかです(20:49)。両者の決意を比べれば、ロシアに圧倒的に強い大義があるのは、自明の理です(20:50)。(筆者注:筆者自身は、この点はミアシャイマー氏と意見を異にする。但し、ミアシャイマー氏が言いたかったのは、前半で繰り返し話しているように、プーチンは何度もNATOの東方拡大を警告し、話し合いを求めたがNATOが無視をして逆の方向に動いたという事実なのだろう。あまりに長いので省略したが、ミアシャイマー氏は、プーチンには切羽詰まって危機感があったと言い、太平洋戦争を例に取ったのは、切羽詰まった危機感を感じたときに何をやるか分からないということのようだ。) ●ここで起こったことは、アメリカが、花で飾られた棺へと、ウクライナを誘導していったことだけだと思います(21:30)(これは正に筆者が書き続けてきたことで、拙著『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』の第五章で詳細な年表を使いながら解説した内容と一致し、表現は異なるが内容的には2月25日のコラム<バイデンに利用され捨てられたウクライナの悲痛>とも一致する)。 ●アメリカは棒で熊(ロシア=プーチン)の目を突いたのです(21:58)。当然のことですが、そんなことをされたら、熊はおそらくアメリカのしたことに喜びはしないでしょう。熊はおそらく反撃に出るでしょう(22:12) (ユーチューブからの引用はここまで) ミアシャイマーが言うところの、この「棒」は、「アメリカ(特にバイデン)がウクライナにNATO加盟を強く勧めてきたこと」と、「ウクライナを武装化させてきたこと」を指しているが、筆者自身は、加えて最後の一撃は12月7日のバイデンの発言にあると思っている。 バイデンは、何としても強引にプーチンと電話会談し、会談後の記者会見で、ウクライナで紛争が起きたときに「米軍が介入する可能性は極めて低い」と回答した。 ミアシャイマー氏が指摘するように、2021年10月26日、ウクライナ軍はドンバス地域にいる親ロシア派軍隊に向けてドローン攻撃をするのだが、10月23日にバイデンがウクライナに対戦車ミサイルシステム(ジャベリン)180基を配備した3日後のことだ。ウクライナはバイデンの「激励」に応えてドローン攻撃をしたものと解釈される。バイデンはウクライナを武装化させて「熊を怒らせる」ことに必死だった。 これは戦争の第一砲に当たるはずだが、それでもプーチンが動かないので、もう一突きして、「米軍が介入しないので、どうぞ自由にウクライナに軍事侵攻してくれ」と催促したようなものである。 あの残忍で獰猛(どうもう)な「熊」を野に放ったバイデンの責任は重い。 ◆三者の視点が一致 トッド氏とミアシャイマー氏の見解と、筆者が『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』でアメリカに関して書いた見解は、基本的には一致する。 トッド氏は歴史学者あるいは人類学者からの立場から分析し、ミアシャイマー氏は元米空軍軍人で現在は国際政治学者の立場から分析している。 筆者自身は日中戦争と中国の国共内戦(解放戦争)および(避難先の吉林省延吉市で)朝鮮戦争を経験し、実際の戦争経験者として中国問題研究に携わってきた。 1945年8月、まだ4歳の時に長春に攻め込んできたソ連軍にマンドリン(短機関銃)を突き付けられ、1947年から48年にかけて中国共産党軍によって食糧封鎖を受け、街路のあちこちには餓死体が放置されたままで、それを犬が喰らい、人肉で太った犬を人間が殺して食べる光景の中で生きてきた。そして最後には共産党軍と国民党軍に挟まれた中間地帯に閉じ込められ、餓死体が敷き詰められている、その上で野宿をさせられた。 あまりの恐怖から、しばらくのあいだ記憶喪失になり、今もあのトラウマをひきずって生きている。 そういった原体験を通して、骨の髄から戦争を憎み、「如何にして戦争が起き、如何にして戦争が展開されるか」を、全生命を懸けて見てきた。その意味で、原因が何であれ、ロシアの蛮行には耐え難い嫌悪感を覚え、到底許せるものではない。人間のものとも思えないほどの残虐極まりないロシアの狂気は、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を蘇らせ、激しい拒否反応を引き起こす。 それぞれの立場と斬り込み方は異なるが、三者が少なくとも、「責任はアメリカにある」という同じ結論に達したことは重視したい。 人類から戦争を無くすためには、私たちは「誰が戦争の本当の原因を作っているか」を正視しなければならない。そうでないと、その災禍は必ず再び日本に降りかかってくる。その思いが伝わることを切に祈る。 中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士 1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グローバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。著書に『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』(7月初旬出版予定、実業之日本社)、『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』、『 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、『ポストコロナの米中覇権とデジタル人民元』、『「中国製造2025」の衝撃 習近平はいま何を目論んでいるのか』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』、『中国がシリコンバレーとつながるとき』など多数。 「アメリカはウクライナ戦争を終わらせたくない」と米保守系ウェブサイトが4月14日、米保守系ウェブサイトが「アメリカはウクライナ戦争が停戦になるのを邪魔している」という趣旨の論考を発表した。15日には中国のCCTVが同じ解説をしている。双方の見解を比較してみよう。 ◆米保守系サイト「ワシントンはウクライナ人が最後の一人になるまでロシアと戦う」反ネオコン(ネオコン=新保守主義)を掲げるアメリカの純粋な保守系ウェブサイトであるThe American Conservative(アメリカの保守)は、4月14日に<Washington Will Fight Russia To The Last Ukrainian(ワシントンはウクライナ人が最後の一人になるまでロシアと戦う)>という見出しでバイデン政権の好戦性を批判する論考を発表した。 そのサブタイトルには<Kiev faces a choice: make peace for its people or war for its supposed friends?(キーウは選択を迫られている:国民のために平和を作りだすのか、それとも仮想の友人のために戦い続けるのか?)>とある。 この「仮想の友人」とは、もちろん「アメリカ」のことだ。 作者のダグ・バンドウ(Doug Bandow)氏はレーガン政権で外交アドバイザーを務めたこともあり、現在はワシントンにあるシンクタンクのシニアフェローとして多数のメディアで執筆活動を行っている。 彼の主張の概要を以下に記す。 1.アメリカと欧州はウクライナを支援しているが、しかし、それは平和を作るためではない。それどころか、モスクワと戦うウクライナ人が最後の一人になるまで、ゼレンスキー政府を支援するつもりだ。 2.アメリカと欧州は、キ―ウに豊富な武器を提供し、モスクワに耐え難い経済制裁を科しているが、それはウクライナ戦争を長引かせることに役立っている。最も憂慮すべきことは、ウクライナ国民が最も必要としている平和を、アメリカと欧州は支持していないことだ。「アメリカはウクライナ戦争の外交的解決(=停戦)を邪魔したい」のだ。 3.戦争が長引けば長引くほど、死者数が増え破壊の程度は高まるが、アメリカと欧州は平和支援をしていない。ワシントンは、ウクライナ指導部が平和のための妥協案を検討するのを思いとどまらせようとしている。 4.戦闘資金の援助は戦いを長引かせることを意味し、アメリカと欧州は、ウクライナ人が永遠に戦えるようにするだろう。 5.戦争によって荒廃しているのはウクライナだ。現在進行中の紛争を止める必要があるのはウクライナ人だ。たしかにロシアはウクライナ侵略の全責任を負っている。しかし、米国と欧州の政府は、紛争を引き起こした責任を共有している。欧米の私利私欲と偽善のために、世界は今、高い代償を払っている。 (引用はここまで。) ◆中国のCCTVが類似の報道をアメリカにはさまざまな勢力があるものだと感心していたところ、なんと、翌日の4月15日、中国共産党が管轄する中央テレビ局CCTVがほぼ類似の報道をした。 キャスターが「もう一つ、私たちが注意しなければならない点があります」と前置きして、評論員(解説委員)に以下のような質問をした。 ――アメリカの報道によれば、アメリカは1ヵ月以内に8億ドル相当の新しい軍事支援をウクライナに提供すると予想されています。また別のアメリカ報道によれば、バイデンは政府高官をウクライナに派遣することを検討しているとも言われています。それはロシアとウクライナの現在の状況にどのような影響を与えるか、あなたの分析をお聞かせください。(質問ここまで) するとCCTVの特約評論員である曹衛東氏は、概ね以下のように答えている。 ――そうですね、アメリカとNATOは絶え間なくウクライナに軍事援助を増強しています。その意図は、ウクライナの(停戦への)交渉を妨げることにあると見ていいでしょう。ウクライナとロシアの間で、少しでも交渉の進展があると、すぐさまアメリカや欧州が慌ててウクライナに大量の武器や資金を提供していることに注目しないといけません。彼らはなぜ停戦交渉を邪魔しなければならないのでしょうか?なぜなら、停戦交渉が進むということは、すなわち、ウクライナが中立国になることを意味するからです。これはアメリカをはじめとするNATOが最も望まないことで、「NATOの東方拡大」の方針に合致しないからなのです。アメリカは停戦協定に署名させたくない。だから絶え間なく軍事支援を増強しているのです。そうすれば、その分だけ、戦争を長く続けることができますから。 なぜ米政府高官がウクライナを訪問しなければならないかというと、戦争を長引かせるよう、決して停戦のための和平交渉を進めないよう、ウクライナを激励するためなんです。そんなことをすれば、より多くの人が犠牲になるわけですが、アメリカはその分だけ利益を得ることができるので、誰かを派遣して、できるだけ長い期間戦争を続けるようにするのがアメリカの目的です。 (評論員の解説はここまで) 反ネオコン派とは言えアメリカのそれなりの地位にあった人物の意見と、中国のCCTV解説委員の意見が、ここまで合致するというのは興味深いという思いで、CCTVを観た。 しかし、CCTVがそういう報道をするのなら、習近平は一刻も早く積極的に停戦に持っていくべくプーチンを説得すべきだろう。 ◆ネオコンはウクライナ戦争で如何なる役割を果たしているのか?そもそもネオコン(Neoconservatism )とは、アメリカの「新しい保守主義」を指し、「国際政治へのアメリカの積極的介入」あるいは「アメリカの世界覇権」や「アメリカ的な思想を世界に広めること」などを信条としているため、従来の保守主義とは異なる。 ネオコンは今では「軍需産業」(武器商人)と密接に結びつき、アメリカの民主党との結びつきが強い傾向にある。ならば共和党はみな反ネオコンかと言ったら必ずしもそうではなく、後述するようにトランプ政権にも少なからぬネオコン派が入っていた。 ただ、本来の保守主義を主張するThe American Conservativeは、反ネオコンで、ウクライナ戦争は武器商人と結びついて、バイデン政権が起こしたものであるとしている。これは4月13日のコラム<ウクライナ戦争の責任はアメリカにある!――アメリカとフランスの研究者が>で書いた、アメリカのジョン・ミアシャイマー氏やフランスのエマニュエル・トッド氏などの見解と一致している。 特に、ネオコンの代表格であるバイデン政権のヌーランド国務次官などは、2013年末にウクライナ政権クーデター(親露派ヤヌコーヴィチ政権を打倒して親欧米派ポロシェンコ政権を樹立させたマイダン革命)をバイデン(副大統領)とともに背後で動かした中心人物だ。このことは拙著『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』の第五章(p.159~p.160)で詳述したが、筆者はそこではネオコンという言葉を一回も使っていない。そういうイデオロギー的概念を持ち込まず、あくまでも客観的ファクトを、これでもか、これでもかとばかりに拾い上げて年表を作成し(p.150-p.155)、時系列的に分析しただけだ。 斬り込み方や視点が全く異なるのに、結果として見えてきたものが同じだった。 年表を作成していると、面白い発見がある。 アメリカの動きは、ひたすら「ウクライナをNATO加盟させる方向に奔走する」という動きに満ちているのだが、その中で一ヵ所だけ特異な事象がある。 それはトランプ元大統領だ。 彼だけは「NATOなど要らない」と言っており、案の定、トランプ政権の時は、瞬発的な外国への攻撃はあっても、その瞬間だけで、いわゆる他国に干渉する「戦争」は起こしていない。なぜならトランプはネオコンではないからだ。ポンペオ(国務長官)やボルトン(国家安全保障問題担当大統領補佐官)などネオコン傾向のメンバーもいたが、バイデン政権のネオコン一辺倒とは比べ物にならない。 だからトランプが豪語する通り、もしトランプが大統領だったら、ウクライナ戦争は絶対に起きてないだろう。そもそもプーチンとトランプは仲良しだったのだから。 何が何でもウクライナをNATOに加盟させようとしたのはバイデンだ。副大統領時代の2009年7月から始めていた。 バイデン政権にいるブリンケン国務長官もオースティン国防長官も生粋のネオコンだ。オースティンなどは、アメリカの巨大軍需企業のレイセオン・テクノロジーズの取締役をしていたのだから、戦争が起きていないと困るネオコンそのものである。 バイデンは先日、米政府高官の誰かをウクライナに派遣する可能性があると発言しているが、その候補として名前が挙がっているのが、このブリンケンとオースティンだ。 いずれもネオコンの代表的人物で、ウクライナを訪問する目的は、The American Conservativeにダグ・バンドウが書いているように、ウクライナ戦争を何としても長引かせることにあるのかもしれない。 日本の大手メディアや岸田内閣は、こういった複眼的視点を持っているだろうか? ロシアの旗艦モスクワ号が沈没したというニュースを知ると、つい思わず「いいぞ、ウクライナ、もっと頑張れ」という気持ちが湧いてきてしまうが、それは、ある意味危険なのかもしれない。戦争が続けばウクライナの民の犠牲者が増えていくだけでなく、さらに強力な破壊力を持った兵器を使う方向にプーチンを誘い込むことにつながるからだ。 ウクライナを支援したい気持ちは変わらないが、何としてもロシア軍の蛮行を止めることが全てに優先する。一刻も早く停戦に持っていくべきだ。 そのためには、ジョン・ミアシャイマーやエマニュエル・トッド、あるいはThe American Conservativeが書いている戦争が起きたメカニズムを直視するしかない。 それを見ない限り、次にやられるのは日本だと覚悟しなければならないだろう。 さらに恐るべきは、ウクライナ戦争は中国が最後の勝者となるのを助長しているということだ。その理由は『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』で詳述した。 中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士 1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グローバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。著書に『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』(7月初旬出版予定、実業之日本社)、『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』、『 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、『ポストコロナの米中覇権とデジタル人民元』、『「中国製造2025」の衝撃 習近平はいま何を目論んでいるのか』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』、『中国がシリコンバレーとつながるとき』など多数。 「なぜアメリカはウクライナ戦争を愛しているのか」を報道したインドTVにゼレンスキーが出演、台湾も引用「なぜアメリカはウクライナ戦争を愛しているのか」という番組は台湾でも引用されたが、この番組を放送したインドの人気キャスターのリモート取材を、ゼレンスキー大統領が引き受け報道された。そこにはゼレンスキーの苦しい思いが滲み出ている。引用した台湾側にも複雑な心境がある。 ◆インドのTVで「なぜアメリカはウクライナ戦争を愛しているのか」3月3日、インドの非常に著名な人気キャスターであり、Republic TV(リパブリックTV)というニュース・チャンネルなどの創設者の一人でもあるアーナブ氏が<Why Does America Love The Russia-Ukraine War? (なぜアメリカはロシア・ウクライナ戦争を愛しているのか)>を放送した。 アーナブの語調は勢いがよく、以下のようなことを早口で力強く喋りまくった。長いので概略を書く。 ●ウクライナ人が、より多く死ねば死ぬほど、アメリカには巨万の富が蓄積されていく。嘘と思うならロッキード・マーティンやジェネラル・ダイナミクスを見るといい。何百人ものウクライナ人が亡くなると、何十億もの大金がアメリカに入る。 ●アメリカの人権団体は人道的な問題を叫んでいるが、しかしその同じ国・アメリカが、ウクライナ人を長引く紛争に追い込んでいる。ウクライナ人は勇敢で、強い決意で戦っているが、彼らはアメリカの金儲けゲームの犠牲者であり、大規模なアメリカの武器産業の犠牲者なのだ。 ●誤解しないでほしいが、私は決してプーチンが正しいと言っているのではない。ロシアの天然ガスの供給が遮断されたとき、儲かるのは誰か?アメリカだ。 ●アメリカ人が大金を稼いだ後、日本やオランダなどは、核抑止の名の下に核兵器を欲しがるだろう。そうなると世界は皆、非常に核化された、非常に危険な世界に住むことになる。 ●前回の世界大戦中およびその後、アメリカは非常に裕福になった。彼らは広島と長崎にも爆弾を投下した。だからあなたに言いたい!もうアメリカの偽善を信じてはならないと。アメリカ人はウクライナ戦争を愛している。アメリカ人はこの戦争が決して終わらないことを望んでいるのだ。 (概要の文字化引用はここまで) たしかにインドは親露派で、モディ首相とプーチン大統領は蜜月のように仲が良い。だからと言って、ここまでストレートに歯切れよく言う人も、そう多いわけではなく、この番組は世界の多くの国で視聴され、人気を博している。 ◆台湾でインドTV、アーナブのトーク番組を引用アーナブは、3月27日に<ウクライナ戦争はアメリカの栄光の日々を終わらせ、新しい世界秩序を生み出すのか?>というトーク番組を放送した。 出演者の顔ぶれが興味深い。 ●Dov Zakheim(ドブ・ザカイム):ブッシュ政権の元会計検査担当国防次官 ●Dr. Daria Dugina:モスクワの政治学者 ●Seyed Mohammad Marandi :テヘラン大学教授 ●Jitendra Kumar Ojha:地政学者、インドの元外交官 ●John Wight:ロンドンの政治コメンテーター ●Viktor Gao(高志凱): 中国グローバル化シンクタンク副主任 など、実に多彩だ。リモートとは言え、モスクワの政治学者が出演しているのは、やはりインドでないと、なかなか実現しないメンバーだろう。 これが大きな話題となり、台湾のテレビ局TVBSが3月31日に取り上げてヒートアップした。 台湾の番組では、アーナブに劣らず、女性キャスターが勢いよく喋りまくっている。 台湾の番組で取り上げられたのは、以下の部分だ。 冒頭、アメリカのザカイム氏が、「インドは人道的危機に対して中立で同情的であると言いながら、その一方では12機のSu-30航空機をロシアから購入しようとしており、おまけにルーブルとルピーで取引しようとしているではないか!」とインドへの怒りを露わにすると、キャスターのアーナブが以下のように嚙みついた。 ――あなたのインドへの不必要な攻撃に簡単に答えよう。なんでウクライナ戦争の議論が、インドに関する議論になるのか、実にイライラする。言っておくが、インドは自分の面倒は自分で見る(アメリカの世話になっていないので、余計なことを言うな)。インドの経済はアメリカ経済の3倍から4倍の速さで成長している。あなた達(アメリカ)はウクライナにバイオ研究所を設立した人で、あなたはバイデンの息子がウクライナであらゆる種類のビジネスをしていたことを知っている人だ。あなた達はウクライナに選択肢を与える振りをしながら、結局は戦う方向に奨励している。あなた達は、ウクライナ人が最後の一人になるまで戦わせたいのだ。 するとザカイムが「アメリカは25億ドルの援助を(ウクライナに)提供したが、あなた達インドはいくら払ったんだい?」と挑発し、アーナブは「あれ(ウクライナ戦争)は、あなた達が始めた戦争じゃないか! ウクライナ人は武器よりも食料を手に入れたいと思っているのに、あなた達は彼らに武器を与えて、結果、彼らをより大きな窮地に追いやっているんだ」と反論。 これに関して台湾の番組に出演していた台湾の複数のコメンテーターらは、一様にインドのアーナブの意見と勇気を讃えたが、加えて以下のような趣旨のことを言っている。 ――インドのように自由に独立して、自国の利益に沿った発言ができるのに対して、台湾政府はアメリカの意に沿うような発言しかしない。実に情けないことだ。これでは台湾の国益を本当に守ることは出来ない。台湾はインドを見習わなければならない。 これはまさに、日本に関しても言えることだ。 もっとも、このテレビ局は台湾の最大野党・国民党にやや傾いている傾向にあるが、日本では大手メディアで、こういった自由闊達な議論がなされることは、あまり見られないのではないだろうか? ◆ゼレンスキーがアーナブの取材に応じてインドのTVにリモート出演非常に興味深いのは、ウクライナのゼレンスキー大統領が、アーナブの単独取材に応じて、彼の番組にリモート出演したことだ。 アーナブは<なぜアメリカはロシア・ウクライナ戦争を愛しているのか>というスピーチをやってのけたキャスターで、そのニュース・チャンネルの持ち主だということはゼレンスキーも知っているだろう。元芸人であったゼレンスキーは、TVに関しては詳しいはずだ。 だというのに、そのニュース・チャンネルの番組に出演するということは、その番組の趣旨、あるいはリパブリック TVの主張に、ゼレンスキーは賛同しているということになるのではないだろうか。つまりゼレンスキーも「なぜアメリカはロシア・ウクライナ戦争を愛しているか」と心の中では叫んでいるのかもしれないのである。 なぜなら、拙著『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』の第五章で詳述したが、ゼレンスキーは3月4日に「今日以降の死者はNATOのせいだ!」として激しくNATOを非難しているし、又まだロシアがウクライナに軍事侵攻する前に、バイデン大統領に対して「これ以上、煽らないでくれ!」と叫んでいるからだ。 ゼレンスキーは全てわかっていて、本当は「ウクライナ人が死ぬのはバイデンのせいだ」と言いたいのだろうが、それはさすがに言えないので、グッと呑み込んで戦っているように見える。 だからアーナブの単独取材に応じたものと推測される。 この点が非常に重要だ。 ゼレンスキーは24の国や組織でリモート講演をしているが、インドはモディ首相がプーチンと仲が良く、親露であることから、インドの国会では講演していない。その代りにリパブリックTVを選んだというのは、注目しなければならない。 ◆インドの言論とThe American Conservativeの主張が同じなのはなぜ?非常に驚いたのは、インドで人気のアーナブの主張と、4月16日のコラム<「アメリカはウクライナ戦争を終わらせたくない」と米保守系ウェブサイトが>で書いたThe American Conservativeの主張が一致しているということだ。「ウクライナの最後の一人が」という言葉を使ったことまで一致している。 アメリカのシンクタンクの研究員が、アーナブの主張を真似するはずもなく、互いに独立に、全く異なる切り口から踏み込んでいって同じ結論に達するのは、そこに真実があるからではないだろうか。 戦争の原因を語ったからと言って、誰一人、ロシアの味方をしているわけではない。筆者を含め、ほぼ全員が、ロシアの蛮行は許せないと断言し、その前提で「戦争が起きる原因」を追究するのは、「人類から戦争そのものが無くなって欲しい」からである。 しかし、日本はアメリカに追随した単一思考しか容認せず、少しでも必死で原因を解明しようとして、バイデンが原因を作っているという結論に達した瞬間に、すぐさま「陰謀論」と詰(なじ)る感覚が出来上がっている傾向にある。 これでは、日本は絶対に戦争から自由になることは出来ないし、次の戦争を起こさない方向に戦略を練ることもできなくなってしまう。それは日本国民にとって良いことなのだろうか? 原因を正確にたどって行けば、次に犠牲になるのは日本であることが見えてくる。その思考を回避する理由は、何もないはずだ。日本の国は、日本人自身が守るしかないのだから。 中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士 1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グローバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。著書に『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』(7月初旬出版予定、実業之日本社)、『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』、『 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、『ポストコロナの米中覇権とデジタル人民元』、『「中国製造2025」の衝撃 習近平はいま何を目論んでいるのか』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』、『中国がシリコンバレーとつながるとき』など多数。 中露首脳電話会談のロシア側発表から読み解くプーチンの思惑と現状 中露首脳電話会談を、ロシアが正式発表した内容から読み解き、プーチンの思惑と現状を、ロシアのエネルギー資源輸出に関するフィンランドの研究所のデータを参考にしながら考察してみたい。 習近平プーチン電話会談が暗示する習近平の恐るべきシナリオ 6月15日、習近平とプーチンの電話会談があった。その会談内容をじっくり読み解くと、習近平のしたたかな、恐るべきシナリオと今後の世界情勢の動向が浮かび上がってくる。なぜ6月15日だったのかも興味深い。 台湾問題を生んだのは誰だ? 次に餌食になるのは日本 シンガポールで開催されたアジア安全保障会議では台湾問題が大きなテーマの一つだった。台湾問題を生んだのはアメリカで、中国経済を強大化させたのは日本だ。その責任は戦争以外の手段で取らなければならない。 ウクライナ戦争で乱舞する中央アジア米中露「三国演義」 王毅外相は8日の中央アジア外相会談で中国・キルギス・ウズベキスタン鉄道着工を約束した。その陰にはプーチンの承認がある。アメリカが2015年に設立した中央アジアとの「C5+1」が再活動し始めたからだ。 南太平洋波高し――王毅外相歴訪失策の真相 対中包囲網を警戒した習近平政権は一帯一路で南太平洋諸島国を引き寄せ勢いを見せたが、最近の日米豪印の動きに対抗しようとして先回りした歴訪で中国は転んだ。クワッドも空虚だが中国の失策から何が見えるのか。 北朝鮮ミサイル発射を中国はどう見ているのか?拉致問題を抱える日本はどうすべきなのか? 北朝鮮が連日ミサイルを発射し、それに対して米韓も報復発射をしている。北朝鮮と軍事同盟を持つ中国はどう反応しているか。中国の基本姿勢とともに拉致問題を抱える日本のあるべき姿を考察する。 日本国民の血税で建設されたモンゴル鉄道が中露交易強化に貢献 モンゴルは鉄道建設により中露交易強化を目指しており今年末迄に3つの鉄道建設が完成するが、なんとそこには日本のODAが注がれていた。当初の目的と違い、中露繁栄のために貢献しているという皮肉な現実がある。 人民元・ルーブル取引が1067%増! アメリカの制裁により広がる非ドル経済圏 アメリカが中露、特にロシアに対して金融制裁を強化する中、人民元とルーブルの取引が爆発的に増加している。特に人民元の成長が著しい。アメリカの大手メディア、ブルームバーグが報じた。 IPEF(インド太平洋経済枠組み)に対する中国の嘲笑的対米酷評と対日批判 バイデン大統領の提唱でスタートしたインド太平洋経済枠組み(IPEF)に対し、中国は軽蔑にも似た酷評をし、それに追随する日本に対しても自らの首を絞めると嘲笑っている。中国の受け止めを考察する。 スイス平和エネルギー研究所が暴露した「ウクライナ戦争の裏側」の衝撃 世界は真実の半分しか見ていない スイスのガンザー博士がウクライナ戦争に関してアメリカが国際法違反をしていることを証明している。日本はこれを完全に無視し事実の半分の側面だけしか見ていない。戦争はこうして起こる。犠牲になるのは日本だ。 「習近平失脚」というデマの正体と真相 なにやら習近平が失墜し李克強が格上げされているというデマが横行している。これは中国の政治体制を知らない人たちの願望でしかないが、いかにして中共中央総書記が選出されるかを解説したい。 ゼレンスキー大統領「中国の姿勢に満足」とダボス会議で ゼレンスキー大統領は5月25日、ウクライナ戦争における中国の政策に満足していると、ダボス会議で述べた。それは停戦後の世界動向に大きな影響を与えるので、現状と今後の可能性を考察する。 キッシンジャーがバイデン発言を批判「台湾を米中交渉のカードにするな」 「一つの中国」コンセンサスで国際秩序を形成したアメリカのキッシンジャー元国務長官は、バイデン大統領の台湾防衛発言を受けて、「二つの中国」をカードにすべきではないとダボス会議で演説した。 バイデン大統領の台湾防衛発言は失言か? 23日、バイデン大統領はアメリカに台湾防衛義務があるような発言をしたがホワイトハウスは直ぐに「変化なし」と否定。失言取り消しはこれで3回目だ。ミリー統合参謀本部議長も米議会で否定している。しかし―。 オーストラリアに誕生した「偽装反中」の新首相と習近平の戦略 21日、オーストラリアの選挙で野党労働党のアルバニージ党首が勝利した。最近の世論動向を受けて反中寄りの発言はしているが、実は親中派。選挙中、「習近平が労働党に一票」という宣伝が与党側からなされていた。 バイデン大統領は金でインドの心を買えるか? 駐日インド大使の対中強硬発言とインドの対中露友好 駐日インド大使が対中強硬的発言をしているが、インド外相は王毅外相が議長を務めるBRICS外相会議で対中露友好姿勢を表明。対米非難が目立つ。そこへアメリカが大型の対インド軍事支援をすることが判明した。 日中外相テレビ会談内容の日中における発表の差異は何を物語るのか? 5月18日、日中外相会談が行われたが、とても同じ会談とは思えないほど、自国に都合のいいことだけを並べており、日中双方で発表内容が大きく異なる。その差異から何が読み取れるか考察してみよう。 中露は軍事同盟国ではなく、ウクライナ戦争以降に関係後退していない 16日にプーチンが招集した軍事同盟CSTO首脳会談に中国は入っておらず中露間にも軍事同盟はなく、中国は北朝鮮以外はどの国とも軍事同盟を結んでいない。中国は軍事的に中立でNATO結束からも独立している。 ロシア苦戦で習近平の対ロシア戦略は変わったか?――元中国政府高官を直撃取材 駐ウクライナの元中国大使の「ロシアは必ず惨敗する」という言葉がネットに拡散したことから、習近平はプーチンを捨てるだろうといった観測が見られる。そこで真相を究めたく、高齢の元中国政府高官を直撃取材した。 ウクライナの次に「餌食」になるのは台湾と日本か?―米政府HPから「台湾独立を支持しない」が消えた! プーチンを怒らせるには「ウクライナのNATO加盟」を煽ることだったが、北京を怒らせるには「台湾独立」を煽ることだ。台湾が政府として独立を叫べば北京は必ず武力攻撃をしてくる。アメリカが動き始めた。 ミアシャイマー「この戦争の最大の勝者は中国」と拙論「ウクライナ戦争は中国の強大化を招く」 文藝春秋がエマニュエル・トッドに次いでミアシャイマーを単独取材。その論説は拙論「ウクライナ戦争は中国の強大化を招く」とほぼ一致している。全く異なる切り口から同じ結論に至っているが、若干の差異もある。 米CIA長官「習近平はウクライナ戦争で動揺」発言は正しいのか? 8日、CIA長官の「習近平は動揺」という発言を日本は一斉に伝えたが、発言の根拠は何か?【軍冷経熱】という習近平の国家戦略が理解できずに述べた長官の希望的感想を日本のメディアは喜ぶだけでいいのか? 遂につかんだ「バイデンの動かぬ証拠」――2014年ウクライナ親露政権打倒の首謀者 ヌーランドの会話録音の中に「バイデン」という言葉があり、バイデンの自叙伝を詳細に分析したところ、マイダン革命の首謀者がバイデンで、ヤヌコーヴィチ大統領に亡命を迫ったのもバイデンだったことが判明した。 2014年、ウクライナにアメリカの傀儡政権を樹立させたバイデンと「クッキーを配るヌーランド」 2013年末、親露政権を倒すべくバイデンはウクライナ国民を焚きつけたが、部下のヌーランドの録音がリークされ、懐柔するためにクッキーを配っている証拠写真もある。この時ウクライナは中国に助けを求めた。
バイデン大統領の台湾防衛発言は失言か?23日、バイデン大統領はアメリカに台湾防衛義務があるような発言をしたがホワイトハウスは直ぐに「変化なし」と否定。失言取り消しはこれで3回目だ。ミリー統合参謀本部議長も米議会で否定している。しかし―。 ◆記者会見でのバイデン大統領の発言23日、バイデン大統領は岸田首相との首脳会談の後の記者会見で記者の質問に答えて「台湾防衛に関してアメリカが関与する」という趣旨の回答をした。できるだけ正確に読み解くために、二次情報ではなく、ホワイトハウスのウェブサイトを見てみると、当該部分は以下のようになっている。 記者:簡単にお聞きします。明らかな理由により、あなたはウクライナの紛争に軍事的に関与したくなかった。もし台湾で同じような状況が起きたら、あなたは台湾を守るために軍事的に関与する用意がありますか? バイデン:はい。 記者:本当ですか? バイデン:それが私たちのコミットメント(約束)ですから。えー、実はこういう状況があります。つまり、私たちは一つの中国原則に賛同しました。私たちはそれにサインし、すべての付随する合意は、そこから出発しています。しかし、それが力によって実現されるのは適切ではありません。それは地域全体を混乱させ、ウクライナで起きたことと類似の、もう一つの行動になるでしょう。ですから、(アメリカには)さらに強い負担となるのです。 これは今までアメリカが台湾に関して取ってきた「戦略的曖昧さ」と相反するものだとして、日本のメディアは大きく報道した。 その日の夜7時のNHKにニュースでは、「失言でしょう」と小さく扱ったが、夜9時のニュースでは「大統領が言った言葉なので重い」という趣旨の解説に変えていたように思う(録画しているわけではないので、そういうイメージを受けたという意味だ)。 ことほど左様に、日本のメディアだけでなく、欧米メディアも、また中国メディアでさえ、外交部の激しい批難を伝えながらも、「又しても失言なのか、それとも本気なのか」といったタイトルの報道が目立つ。 というのも、バイデンは2021年8月と10月にも、米国には台湾防衛義務があるという趣旨の見解を述べたことがあるからだ。しかし、そのたびにホワイトハウスの広報担当者らは「火消し」に追われ、「アメリカの台湾政策に変更はない。台湾が自衛力を維持できるように支援するだけだ」と軌道修正した経緯があるからだ。 ◆ミリー参謀本部議長が米議会で「台湾人による代理戦争」を示唆全世界が今般のバイデン発言を重く受け止めると同時に、「あれは失言だ」という報道が、それ以上に多いのは、バイデンに2回も「前科」があり、今回は「3回目になる」からだけではない。 実は今年4月7日、ミリー統合参謀本部議長は米議会公聴会で長時間にわたる回答をしており、その中で以下のようなことを述べている(要点のみ列挙)。 1.台湾の最善の防衛は、台湾人自身が行うことだ。 2.アメリカは、今般ウクライナを助けるとの同じ方法で台湾を助けることができる。 3.台湾は島国であり台湾海峡があるので、防御可能な島だ。 4.アメリカは台湾人が防御できるように台湾を支援する必要がある。 5.それが最善の抑止力で、中国に台湾攻略が極めて困難であることを認識させる。(要点はここまで) 以上、「1」と「2」から、アメリカ軍部は台湾が中国大陸から武力攻撃された場合は、ウクライナと同じように「台湾人に戦ってもらう」という、ウクライナと同じ「代理戦争」を考えていることが読み取れる。 バイデンが言っていたように「ウクライナはNATOに加盟していない(ウクライナとアメリカの間には軍事同盟がない)ので、アメリカにはウクライナに米軍を派遣して戦う義務はない」のと同じように、台湾とアメリカとの間にも軍事同盟はない。 またバイデンが「ウクライナ戦争にアメリカが参戦すれば、ロシアはアメリカ同様に核を持っているので、核戦争の危険性があり、したがってアメリカは参戦しない」と言っていたが、これも「ロシア」を「中国大陸」に置き換えれば同じ理屈が成り立つ。 すなわち、中国には「核」があるので、アメリカは直接アメリカ軍を台湾に派遣して台湾のために戦うことはしない、ということである。しかし「4」に書いてあるように、武器の売却などを通して台湾が戦えるように「軍事支援」する。 これも、ウクライナにおける「人間の盾」と全く同じで、ウクライナ人に戦ってもらっているように、「台湾国民に戦ってもらう」という構図ができている。 ◆台湾関係法には、どのように書いてあるのか?そこで、バイデン大統領の3度にわたる「アメリカには台湾を防衛する義務がある」という趣旨に近い「台湾防衛義務」発言が、単なる失言なのか、それとも何かしらのシグナルを発しているのかに関して考察するために、台湾関係法を詳細に見てみよう。 台湾関係法のSec. 3301. Congressional findings and declaration of policy( 議会の調査結果と政策宣言)の(b) Policy(政策)の(3)~(5)には、以下のような文言がある。 (3)中華人民共和国との外交関係を樹立するという米国の決定は、台湾の将来が平和的な手段によって決定されるという期待に基づいていることを明確にすること。 (4)ボイコットや禁輸、西太平洋地域の平和と安全への脅威、米国への重大な懸念など、平和的手段以外の手段で台湾の将来を決定するためのあらゆる努力を検討すること。 (5)台湾に防御的性格の武器を提供すること。 (6)台湾の人々の安全、社会的または経済的システムを危険にさらすような強制またはその他の形態の強制に抵抗するためのアメリカの能力を維持すること。 また台湾関係法のSec. 3302. Implementation of United States policy with regard to Taiwan(台湾に関する米国の政策の実施)の(c)United States response to threats to Taiwan or dangers to United States interests(台湾への脅威または米国の利益への危険に対する米国の対応)には、以下のような文言がある。 ――大統領は、台湾の人々の安全または社会的または経済的システムへの脅威と、それから生じる米国の利益への危険(があった場合は、それ)を直ちに議会に通知すること。 大統領と議会は、憲法の手続きに従って、そのような危険に対応するための米国による適切な行動を決定するものとする。(引用ここまで) これらから考えると、中国大陸が武力的手段で台湾統一を行なおうとすれば、アメリカはそれ相応の手段を取ると政策的に位置づけられていることが分かる。 となれば、バイデンの発言は失言ではなく、意図的なものであることが読み取れる。 ◆中国が武力攻撃するのは「台湾政府が独立を宣言した時」のみでは、中国大陸が武力的手段で台湾統一を行なおうとするのは、どういう時かというと、「台湾政府が独立を宣言した時」である。それをすれば、2005年に制定された「反国家分裂法」が作動する。 それを知り尽くしているバイデン大統領は、武力攻撃をしそうにない中国大陸(北京政府)を怒らせるために、アメリカ政府ウェブサイトの台湾関連事項から「台湾は中国の一部」という言葉と「アメリカは台湾の独立を支持しない」という言葉を、ひっそりと削除した(詳細は5月12日のコラム<ウクライナの次に「餌食」になるのは台湾と日本か?―米政府HPから「台湾独立を支持しない」が消えた!>。また、なぜ習近平は台湾政府が独立宣言でもしない限り台湾を武力攻撃しないかに関しては、拙著『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』で詳述した)。 こうして、中国を刺激して、何としてでも戦争を起こさせ、戦争ビジネスを通してアメリカが世界一である座を永続させようというのが、ジョー・バイデンが練り続けてきた世界制覇の戦略なのだとしか、言いようがない。 ◆中国の反応は?肝心の中国は、台湾に関するバイデン発言に、どう反応しているかを少しだけご紹介したい。 冒頭に書いたように、中国外交部は激しいバイデン批判を発表し、また中国共産党および中国政府系メディアも強い批判を展開はしているものの、基本的に「中国はアメリカの、その手には乗らない」といった、割合に冷めた論評も多く、中国全土が激怒しているというような状況にはない。 むしろ「台湾が政府として独立を宣言」したら、それこそが「最も大きな現状変更」で、中国にとっては「宣戦布告」に相当すると位置付けている。 だから台湾関係法にあるように「平和的手段」ではなく「武力的手段」で中国が台湾統一を成し遂げる方向に中国を持っていくには、「台湾の独立を煽る」のが最も早い近道であるとバイデンが考えていると、中国はバイデンの言動を判断しているのである。 つまり、「どうすれば中国を最も怒らせることができるか」、「どうすれば中国に武力行使を先にさせるか」と、バイデンは考えているということだ。 だから中国の主張には、「バイデンの手には乗るな。中国はロシアではない」というのが数多く見られる。 と同時に、バイデンの言動と、アメリカ政府のウェブサイトから「台湾の独立を支持しない」を削除するといった一連の行動を危険視し、「台湾を独立させようとしているのはアメリカだ」と激しく批難している。 しかし、そもそも中国(=中華人民共和国)を国連に加盟させ、「中華人民共和国」を「唯一の中国」として認め、「中華民国」(台湾)を国連から追い出したのはアメリカではないか。 ニクソンの大統領再選のために、キッシンジャーを遣って忍者外交をさせ、ソ連を追い落とそうとした。今度はバイデンの大統領再選のためにロシアを追い落とし、全世界に災禍を与えている。 まんまとバイデンの罠に嵌ったプーチンは、「愚か」であり「敗北者でしかない」のだが、「バイデンの仕掛けた罠」を正視してはならない同調圧力が日本にはある。犠牲になるのはやがて日本だということに気が付いてほしいと切に望むばかりだ。 スイス平和エネルギー研究所が暴露した「ウクライナ戦争の裏側」の衝撃 世界は真実の半分しか見ていないスイスのガンザー博士がウクライナ戦争に関してアメリカが国際法違反をしていることを証明している。日本はこれを完全に無視し事実の半分の側面だけしか見ていない。戦争はこうして起こる。犠牲になるのは日本だ。 ◆スイス平和エネルギー研究所のガンザー所長が語るウクライナ戦争:真実の裏側2022年4月12日、スイス平和エネルギー研究所の所長であるダニエル・ガンザー博士がRubikon.newsに寄稿し、「8年前のオバマ大統領の国際法違反がなければ、プーチンの違法な軍事侵攻はおそらく起こらなかったでしょう」と語った。 動画のタイトルは<ガンザー博士が語るウクライナ紛争:真実の裏側>で、日本語字幕が付いているので、非常にわかりやすい。 なぜ、この動画にたどり着いたかというと、実は映画監督オリバー・ストーンのトークを見て、彼がドキュメンタリー『ウクライナ・オン・ファイヤー』を制作していたことを知ったからだ。ところがこの映画は、「あまりに真実を語っている」ことからか、アメリカ政府が妨害して見られないようにしているため、規制がかかってなかなかアクセスできない。さまざまなルートがあり、こちらももアクセスしたが、うまくいかない。民主主義国家のはずなのに、偏った事実しか知らせず、もう一方のアメリカ政府にとって都合の悪い事実は知られないようにするという、まるで中国大陸のようなやり方だ。 そこで若手のパソコンに強い人にお願いしてやっとたどり着いたのが、このスイス平和エネルギー研究所の動画である。何時間もかけてようやく文字起こししたのだが、よくよく見ると動画の下に文字による解説があった。しかしせっかくなので、自分で文字起こししたものも参考にしながらガンザー所長が何を語っているかを、概略をご紹介したい。 ◆ウクライナ戦争の出発点2022年2月24日、ロシアのプーチン大統領は軍隊にウクライナへの侵攻を命じたが、これは国連の暴力禁止規定に違反するため違法だ。一方、そのほぼ8年前の2014年2月20日、アメリカのバラク・オバマ大統領は、ウクライナをNATOに引き込むためにウクライナ政府を転覆させた。このクーデターがウクライナ戦争の出発点だ。 プーチンの侵略と同じように、オバマの行動は国連の暴力禁止に違反し、したがって違法だ。現在、メディアではプーチンの侵攻について多く報道され、正しく批判されている。しかし、オバマのクーデターについては、ほとんど報じられていない。なぜ、物語の半分しか語られないのか? ガンザー所長の著作『違法な戦争(ILLEGAL KRIEGE)』でもウクライナのクーデターについて述べている。「欧米が主導したクーデターであることは間違いない」と、元CIA職員のレイ・マクガバンは認めている。 ベルリンの壁が崩壊し、ソビエト連邦が崩壊した後、ウクライナは1991年にソビエト連邦からの独立を宣言した。ロシア政府の弱体化は、米国の影響力を東欧に拡大し、かつてモスクワが支配していたワルシャワ条約加盟国をNATOに加盟させる最初のチャンスを米政府に与えた。 ◆NATOの東方拡大米国はロシアにNATO不拡大を約束していたにもかかわらず、NATOは拡大され続けた。ロシアは激怒し、米国でも注意喚起の声が上がった。「もし中国が強力な軍事同盟を結び、カナダやメキシコを参加させようとしたら、そのときのワシントンの怒りを想像してみたらよい」と、シカゴ大学の政治学者ジョン・ミアシャイマー氏が警告した。ミアシャイマー氏によれば、欧米が不必要にロシアを刺激したため、ウクライナ危機を引き起こしたとぼこと。 ◆マイダンでのジョン・マケイン上院議員2013年末、ウクライナの首都キエフの中央広場「マイダン」では、ヴィクトル・ヤヌコヴィッチ大統領とニコライ・アザロフ首相の政権に反対するデモが行われていた。元ボクシング世界チャンピオンとして有名なビタリ・クリチコがデモを主導し、米国と緊密に打ち合わせた上で扇動的な演説をした。この緊迫した状況の中、米国の有力上院議員ジョン・マケインがウクライナに飛び、2013年12月15日、クリチコとともにマイダンの抗議者陣営を訪問した。米国の上院議員がデモ隊にウクライナ政府転覆促した。 もし、ロシアの有名な国会議員がカナダに飛び、首都オタワでカナダ政府を転覆させようとするデモ隊を支援したら、米政府はどれほど怒り狂うだろうか? 米国はまさにそのようなことをウクライナで行ったのだ。 ◆駐キエフ米大使館が抗議行動をコーディネートマイダンのデモのリーダーたちは、米大使館に出入りし、そこで指令を受けていた。一部のデモ隊は武装しており、警察に対して暴力を行使した。キエフの米大使館では、ジェフリー・パイアット米大使がデモ隊を支援し、ウクライナの不安定化を進めた。パイアット大使は、元ボクサーのクリチコと直接コンタクトをとっていた。マイダン広場の組織化されたデモはどんどん大きくなり、キエフの緊張は高まっていった。バイデン米大統領もマイダンのデモを支持し、クーデターに直接関与していた。2013年12月、当時オバマ政権下で副大統領だったバイデンは、夜中にヤヌコビッチ大統領に電話をかけ、「警察がマイダンの群集を排除したら、ただでは済まないぞ」と脅した。その後、ヤヌコビッチは予定していた排除行動を撤回した。 ◆ビクトリア・ヌーランドの50億ドル米国務省でクーデターを担当していたのは、ビクトリア・ヌーランドだ。ヌーランドはブカレスト首脳会議で合意されていたように、ウクライナをNATOに加盟させるため、アザロフ首相とヤヌコビッチ大統領を引きずり落とそうとしていた。マイダンのデモの指導者たちは、米大使館から指令を受けただけでなく、報酬も受けていた。2013年12月、ヌーランドは講演で「我々はウクライナの民主主義を保証するために50億ドル以上を投資してきた」と語った。これには、元米下院議員のロン・ポール氏など、米国でも批判が出た。ウクライナのデモ隊の中にお金をもらっている人がいることは、当時公然の秘密だった。米国の大富豪ジョージ・ソロスのように、革命に資金を提供する人たちがいた。(会話録音に関しては省略した。) ◆2014年2月20日、狙撃手が状況をエスカレートさせる2月末、マイダンの状況がエスカレートした。2014年2月20日、正体不明の狙撃手が複数の建物から警察官やデモ隊に発砲し、40人以上の死者を出すという大虐殺が発生し、状況は混乱した。ただちに当時のヤヌコビッチ政権とその警察組織は虐殺の責任を負わされたが、彼らには事態をエスカレートさせることに何の得もない。彼らとしては政権の転覆を避けたかったからだ。 しかし政権打倒を目指していたボクサーのビタリ・クリチコはドイツのタブロイド紙『ビルト』に「国際社会は独裁者が国民を虐殺するのを傍観していてはならない!」とコメントし、政権転覆は成功した。ヤヌコビッチ大統領は失脚し、ロシアに亡命した。その後、億万長者のペトロ・ポロシェンコが大統領に就任し、ウクライナをNATOに導くと即座に宣言。 ◆プーチンがクーデターについて語るロシア人は米国がクーデターを組織したことを知っており、激しい怒りを覚えていた。もし米国と欧州が違憲行為を行った者達に対して、「そんなやり方で政権を取っても決して支持しない」、「選挙をやって勝てばいいんだ」と告げていたら、 状況はまったく違っていただろうとプーチン大統領は語った。 ◆クリミアの分離独立プーチン大統領は、手をこまねいたままウクライナを手放すつもりはなかった。ヤヌコビッチ政権崩壊直後、2014年2月23日未明にクリミアの「奪還」開始を指示した。2014年2月27日、クリミア半島最大の都市シンフェロポリで、記章のない緑の制服を着たロシア兵がすべての戦略地点を占拠し2014年3月16日、クリミアの人口の97%がウクライナから離脱し、ロシアに加盟することに票を投じた。それ以来、クリミア半島はウクライナではなく、ロシアに属している。 ウクライナ戦争では、米国もロシアも国際法を遵守していない。 まずオバマが2014年2月20日のクーデターで国際法を破った。 これに対し、プーチンは2014年2月23日にクリミアを占領して国際法を破った。 ロシアのクリミア占領は「現行の国際法に対する侵犯」であり、「ウクライナの主権と領土保全が侵害された」と、元連邦行政裁判所判事のディーター・デゼーロートは説明している。西側諸国は現在プーチンを厳しく批判しているが、西側諸国も数々のケースで現行の国際法に繰り返し違反している。プーチンを批判する資格に疑問符が付される。 ◆ドンバスの分裂キエフのクーデターとクリミアの分離独立後、ウクライナは内戦状態に陥った。新首相のヤツェニュク氏は、軍、諜報機関、警察の力で国全体を支配下に置こうとした。しかし、兵士、警察、シークレットサービス関係者は必ずしも全員がクーデター政府の指示に従ったわけではない。ロシアと国境を接するウクライナ東部のロシア語圏では、ドネツク地区とルガンスク地区がキエフのクーデター政権を承認しないことを宣言した。「分離主義者たちは警察署や行政庁舎を占拠し、新政府は不法に誕生したものであり正統性がない」と主張した。 ヤツェニュク首相はこれに激しく反発し、分離主義者はすべてテロリストであると断じた。CIA長官ジョン・ブレナンはクーデター実行者に助言するためにキエフに飛んだ。2014年4月15日、ウクライナ軍は米国の支援を得て「対テロ特別作戦」を開始し、ドネツク地区のスラビャンスク市を戦車や装甲兵員輸送車などで攻撃した。 これがウクライナ内戦の始まりで、8年間で1万3千人以上の命が失われ、それが2022年2月24日のプーチンによる不法侵攻につながったのだ。 キエフでのクーデターは、プーチンのウクライナ侵攻を正当化するものではなく、それが国際法の侵犯であることに変わりはない。しかし、私たち西側諸国が2014年のクーデターを無視するならば、ウクライナ戦争を理解することはできないだろう。 (ここまでがガンザー所長の分析の紹介。キエフなどは原文のママ) ◆基本軸で合致していた筆者の見解このような動画を初めて見て驚き、激しい衝撃を受けた。 なぜなら、筆者の書いてきたものはガンザー所長の動画での分析の足元にも及ばないが、しかしこれまで書いてきたコラム(5月1日の<2014年、ウクライナにアメリカの傀儡政権を樹立させたバイデンと「クッキーを配るヌーランド」>や5月6日のコラム<遂につかんだ「バイデンの動かぬ証拠」――2014年ウクライナ親露政権打倒の首謀者>と一部重なっており、拙著『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』で描いた軸とも一致していたからだ。 私ごときものが主張しても、日本政府は「聞く耳を持たない」かもしれないが、しかしスイス平和エネルギー研究所所長の主張やオリバー・ストーンが描いた映画であるなら、信用してくれるのではないだろうか。 真実はどこから斬り込んでも同じところに点を結ぶ。 日本はこの真実から目を逸らし、戦争に向かってまっしぐらに進もうとしていることに気が付いているだろうか? 今般のアメリカの対応を見れば、日本は自国の軍事力を強化する以外にないのは明らかだ。しかし、日本がどの文脈の中で戦争に巻き込まれようとしているのか、その真相を日本国民は自分自身のために直視しなければならないと思う。 キッシンジャーがバイデン発言を批判「台湾を米中交渉のカードにするな」「一つの中国」コンセンサスで国際秩序を形成したアメリカのキッシンジャー元国務長官は、バイデン大統領の台湾防衛発言を受けて、「二つの中国」をカードにすべきではないとダボス会議で演説した。 ◆ヘンリー・キッシンジャーが「台湾を米中交渉のカードにするな」世界の政財界のリーダーが集まるダボス会議が、5月22日から26日の日程でスイスのダボスで開催されているが、アメリカのキッシンジャー元国務長官が、23日、リモート講演を行った。 講演では「台湾を米中交渉のカードにすべきでない」という趣旨のことを語っている。これは来日したバイデン大統領が台湾有事に関して記者会見で言った「台湾防衛にアメリカが関与する」という趣旨の言葉を受けて話したものである。 バイデン発言の詳細に関しては5月24日のコラム<バイデン大統領の台湾防衛発言は失言か?>に書いた通りだが、それに対してキッシンジャーは概ね以下のようなことを言っている。 ●ワシントンと北京は、台湾を中心にすえたような緊張した外交関係を避ける道を求めなければならない(=米中は台湾をカードにして対立を深めることをやめなければならない)。 ●世界の二大経済大国が直接対決を避ければ、それは必ず世界平和に貢献することになるだろう。 ●アメリカは「ごまかし(ペテン)」や「(ひっそりと)徐々に進める方法」によって、何やら「二つの中国」まがいによる解決を展開すべきではない。中国はこれまでと同じように、忍耐し続けていくだろう。 報道元のアメリカ大手メディアCNBCは、バイデンの発言は、台湾に対するワシントンの長年の「戦略的曖昧さ」を否定するように見えたが、しかしホワイトハウスはすぐに「台湾問題に対するアメリカの政策は変わっていない」と火消しに追われていると報道している。 ◆キッシンジャーが言う「二つの中国」とは何かキッシンジャーが言うところの「二つの中国」とは何かを、少し具体的に説明しなければならない。 まず、その前提となる「ごまかし(ペテン)」とか「(ひっそりと)徐々に進める方法」などが、何を指しているかを深堀してみよう。 それは5月12日のコラム<ウクライナの次に「餌食」になるのは台湾と日本か?―米政府HPから「台湾独立を支持しない」が消えた!>で書いたように、アメリカ政府が台湾関連のウェブサイトから、「ひっそり」と ●台湾は中国の一部である。 ●アメリカは台湾の独立を支持しない。 という二つのキーフレーズを削除したことを指している。 なぜこれが、キッシンジャーが言うところの「ごまかし(ペテン)」とか「ひっそりと徐々に進める方法」に相当するかというと、台湾関連のウェブサイトから「ひっそりと」削除しただけであって、誰もそのことに気が付かなかったら、気が付かないままに月日が過ぎていったかもしれないからだ。 じわーっと変化させておいて、「削除しましたよ」とは公表しない。 誰かが気が付いたら仕方ないが、言い訳はまだできるようにしてある。 それは「一つの中国(one China)」という言葉だけは残してあるからだ。 1992年に共通認識として、中国大陸と台湾政府の間で確立された「九二コンセンサス」では、「一つの中国」を中国大陸側が「中華人民共和国を指している」と認識し、台湾政府側が「中華民国を指している」と心の中で位置付けるのは「自由だ」という、共通認識なのである。要は「中国は一つしかない」と認識するのであれば、それでいい、という、妥協的とも偽善的ともいえる「九二コンセンサス」なのである。 この解釈に関しては、筆者は90年代半ばに国務院台湾弁公室の主任を取材し、長時間にわたって議論をしたので、まちがいないだろう。 そこでアメリカ政府のウェブサイトには「一つの中国」という言葉だけは残しておけば、これは ●中国大陸から見れば「中華人民共和国」 ●台湾政府から見れば「中華民国」 という「九二コンセンサス」精神を考えると、 ●台湾は中国の一部である。 ●アメリカは台湾の独立を支持しない。 を削除しさえすれば、「二つの中国」を暗に認めることにつながる。 まるで「手品のような手段」なので、元国務長官だけあり、キッシンジャーは、この「インチキ性」と「まやかし」に敏感に気が付いたのだろう。 些末なことで申し訳ないが、某元外交官だった評論家は、筆者のコラム<ウクライナの次に「餌食」になるのは台湾と日本か?―米政府HPから「台湾独立を支持しない」が消えた!>に書いてある論理を「非常に浅い読み」と批判しておられるようなので、その方は是非とも、今回のこのコラムに書いてあるキッシンジャーの「二つの中国」という言葉を「深く読み取り」、なぜキッシンジャーが、「ごまかし(ペテン)」とか「(ひっそりと)徐々に進める方法」などという言葉を使わなければならなかったのかを「深く読み取って」いただきたいものだと思う。 アメリカ政府が「一つの中国」だけは残したのは、「九二コンセンサス」があるからだ。台湾政府が勝手に「中華民国である」と認識することが許される仕組みになっているのである。 なお、バイデン政府が次にやる手段は「削除」ではなく、「明示する」という段階に入る。すなわち「アメリカは台湾の独立を支持する」と明確に書くという意味である。この段階に至るにはまだ少し長い時間がかかるだろう。それをキッシンジャーはgradual process(ゆっくりと漸進するプロセス)という言葉で表現している。 私たちは、こういった微妙な変化に鋭敏に気が付いて米中台全体の動きを俯瞰的に観察していかなければならないのではないだろうか。 それが日本国民を真に守ることにつながると、固く信じる。 #
by maiu08
| 2022-06-21 04:56
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